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第5話

 あれから二日ほど壁の向こうからの声は聞こえてこない。そのため、朝霞はしっかり睡眠を取ることが出来ていて、週末の今日はとても身体の調子が良かった。  朝霞は奥さんが金曜から帰省するからと、羽島に誘われて会社から歩いて十分ほどの居酒屋で羽島と酒を飲み交わしていた。  羽島の妻は羽島が学生の時からの付き合いらしく、帰省などしていなくても飲みに行ったりすることは咎められないらしいが、やはり気兼ねなく飲めるということで今日になったのだ。 「奥さん元気にしてるのか?」  朝霞が羽島に問うと羽島は『元気すぎるくらいだ』と言って笑っている。羽島には二歳になる娘がいて、かなり溺愛しているらしいから、妻が咎めなくても娘の起きている間に帰りたい、と言うこともあり娘ができてからは朝霞と飲みに出る頻度は激減している。 「いやあ、やっぱ娘が可愛すぎて。あいつに何かしでかしてくる輩がいたら、間違いなく殺してしまいそうだな」 「何言ってるんだ。まだ二歳だろう? 早すぎるだろ。心配するのが」  羽島はまだ二歳の娘のことを、今から心配しているようで、『変なやつなら殴ってやる』と朝霞に話すが、朝霞からしてみたらそんな先の心配をしなくても、といった感じだ。 「朝霞も娘を持ったらわかると思うけどな。もう、生まれた瞬間から心配なんだよ」 「そういうもんか?」 「そんなもんだ」  羽島と朝霞はそれなりに仲が良い。おそらく会社内の人間の中では一番親しいといってもいいくらいだ。けれど、さすがに自分がゲイであるということに関してはカミングアウト出来ておらず、今のところする予定もない。  かなり前から自分がゲイであることに関して自認はしているけれど、実際そんなことを話して生きやすい世の中でないことは確かなのだから、わざわざ言うことでもないと思っている。パートナーを見つけるときにはそういう店で出会ったり、そういう人間が集まる場所での出会いに限られるというのは難点ではあったが、会社の人間に知られて得なことなど何もないからだ。  そんなわけだから、当然ながら羽島は朝霞を異性愛者だと思っている。だからこそ、子供の話なども当たり前にしてくるというわけだ。最近では羽島は朝霞に結婚を進めてくる始末なのだが、自由がいいんだと言って適当に誤魔化していた。 「そういや、朝霞、最近寝不足なのか? なんか会社で顔合わすたびに疲れた感じがしてたんだけど。あ、でも今日は元気そうだな」 「ああ、なんかな、隣から妙な声が聞こえてくるんだよ」 「妙な声?」 「まあ、大声で聞こえてくるわけじゃないから、あれなんだけど……。なんていうかそういう感じのな」  最近、朝霞の睡眠不足が続いていたことに羽島は気が付いていたようだ。朝霞は、自分が聞き耳を立てていたことは言わずに、隣人の声が聞こえて眠れないのだと羽島に話した。 「え? それって女?」 「いや、女の声じゃなくて、たぶんやってる側の男の声だと思う」 「なんだよ、つまんねえなあ。どうせ聞こえるなら女のほうがいいのに。だろ?」 「まあな。でも、どちらにせよ煩いことには変わりないだろ?」  朝霞から、『そういう声』と言われて察しがついた羽島は、女の喘ぎ声でも聞こえてくると思ったのだろう。朝霞の答えに羽島は『男かよ』とつまらなそうに言う。通常の男なら、その反応になることくらいは朝霞もわかっているから、それに軽く同調した上で煩くて眠れない時がある、と羽島に話した。  羽島は女のほうがいいと答えたが、朝霞はゲイだ。朝霞にとっての男の声は、羽島にとっての女の声と同じである。けれど、今隣人から聞こえてきている声は、男の喘ぎ声などではない。内容を全部話すと羽島が引いてしまうだろうことは予測ができる。だからこそ、『そういう感じの』と濁したのだ。 「朝霞は物音とか気にしそうだもんなぁ。俺なんか、煩くても爆睡だけど」 「俺だって、寝てしまえば平気だよ。寝入りが悪くなるだけで。おかげで毎晩、晩酌する羽目になってるんだぞ?」  羽島は朝霞が気にしすぎなのではないかというような感じで話をするが、羽島だってあの内容を聞けば女がどうとかそういうことではなく、何やってるんだ?位の興味は持つだろう。それに朝霞だって、眠ってしまえば問題はないのだ。ただ、気になって眠れないというだけなのだから。 「毎晩飲んでるのを、隣の住人のせいにしてるだけだろ?」 「うるさいよ。お前だって変わらないくせに」 「まあ、そうだな。俺も毎晩ビールは欠かせないから」  羽島は自分が酒好きなのを他人のせいにすんなよ、と朝霞を笑うが、羽島も同じように毎晩晩酌をしているのだから、羽島にだけは言われたくないと朝霞も同じように笑いながら、手元のジョッキに口をつける。結局、二人とも酒が好きなことには変わりはない。  久しぶりに、羽島とともに飲みに出かけた朝霞は、最終的に三軒の店を回ってしまい、朝霞が自宅についたのは深夜一時を過ぎていた。この日、朝霞はいつもより多く飲んでいたため、それこそ翌日までぐっすりと眠った。

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