58 / 83
.
動いた拍子にひやりとした空気が俺と、俺を包む殻の間に入り込んでくる。
「すまない」
そろりと見上げた忍さんは、俺を見下 ろしてはいたが見下 してはいなかった。
冷たいと思えた目を伏せ、俺を窺うように見ている。
「このアラームは……出社時刻のようだが?」
「あ…の……今日は、もう、今から用意していては電車に間に合いませんから…」
また小言を言われるだろうが仕方がない。
忍さんが目の前に置いてくれた携帯電話に手を伸ばす。
ぶるぶると震えたみっともない姿を見られることになったが、会社に連絡は入れなければならない。
「車では間に合わないのか?」
「え…?」
「送って行こう。用意したまえ」
「えっ…だ………」
スラックスのポケットからキーケースを取り出して車のカギを確認すると、忍さんはオレの返事を待たずに玄関へと行ってしまった。
幸い遅刻をすることもなく会社へと着いたオレは、いつも通りの仕事をこなして家へと帰ってきた。
「………」
灯されたリビングの明かりは家に誰かがいると言う証だ。
庭に咲く薔薇達も普段は暗く沈んでいるが、今日は照らされて仄明るく浮かび上がって見える。
誰かが、家にいる。
保さんが亡くなってから、この家に人がいて明かりをつけて待っていてくれたことなどない。
「帰り…ました…」
薄く玄関を開ける。
ともだちにシェアしよう!