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第6章:ミステイク③

***  お茶を配る順番は部署の入口側から、円を描くようにいつも配っていた。だけど今回は自分の諸事情で中央寄りにいる注意人物の兵藤を最後にしたかったので、さりげなく後ろを通って先輩の隣にいらっしゃる方のデスクにカップを置く。  その瞬間に兵藤がちょっとだけ頭を動かし、瞬きせずに顔を見上げてきた。 (ひぃっ……こっち見てる! だけど動揺するな、無視無視)  あからさまだったかもしれないがぷいっと顔を背けて、ガン見してくる視線から逃げるように次の人のデスクに赴いた。 『俺のお茶はどないした?』と言われる前に、必死になって立ち去った。心の準備が全然できていなかったし、顔を見られたのだってほんの僅かなことだったというのに、動揺したのがもろに顔に出ていただろう。  とにかく現在手にしているお茶を配り終える前に、気持ちの整理をしながら心を落ち着けて話をしなければ。  頭の中で思い描いたシュミレーションを3つほど思い出しつつ、ときには挨拶を交わしながら和やかにお茶を配っていった。そして―― 「おはようございます。昨日はありがとうございました!」  口を開きながら、いつものように左隅に兵藤が愛用するマグカップを置いた。若干ぶっきらぼうな感じの言い方になってしまったけれど、動揺を隠すことについては成功したと思いたい。  兵藤の視線が仕事中のパソコンからマグカップに移す様を、固唾を飲んで見守ってしまう。左手に持っているお盆を、意味なくぎゅっと握り締めた。 「おはよ。有坂と一緒に呑めて、昨日は楽しかったで……」  長い睫を数回上下しながら、こっちを見ずに口を開いてきた横顔。見惚れてしまうくらいに格好良く整った様はいつも通りだけど、楽しかったというセリフとは裏腹に、曇りがちになっている兵藤の顔色は、もしかして昨日のキスのせいだろうか――でもこれについては、わざわざ訊ねてはいけないものだ。我慢しなければ。 「……俺もいろいろ話せて楽しかったです。では失礼します」  きっちり頭を下げて、とっとと立ち去ろうとしたときだった。 「ちょっと待てや!」 「くっ!?」  いきなりかけられた兵藤の声に身体が竦んだせいで、微妙な表情を浮かべたまま向かい合う有坂の顔を、何か言いたげな眼差しで兵藤がじっと見つめた。 「な、何でしょう、か?」  どこか探るような視線のせいで、瞬く間に喉が干上がった。 「寸劇の練習、今日が最後やろ。だから大平課長も混ぜて一緒に総練習するから、そのつもりでおってな」  ――なんだ。練習のことだったのか、無駄に焦ってしまった。 「有坂、何て顔しとるんや。帰り際のアレのことは、もう忘れたから」  少しだけ頬を赤らめさせながら、瞼を伏せて視線を逸らしているからこそ分かってしまった。その態度は見るからに、全然忘れていないものだ。 「俺は一晩ぐっすり眠ることができたお蔭で、忘却の彼方ですよ。あははは……」  真逆のことを言い放ちながらにこやかに笑って、じりじりと兵藤から離れた。そしてくるりと向きを変えて脱兎のごとく駆け出す。  これ以上のツッコミ並びに深追いされるような探索は勘弁だと思ったから、そりゃあもう必死になって逃げ出したと言ってもいい。  それに見ていられなかった――喋るたびに当然、ぱくぱくと兵藤の唇が動く。その唇に自分からキスしてしまったことをぶわっと思い出したら、いたたまれない気持ちでいっぱいになる。  この日一日そんなマイナス思考に自ら囚われたままでいたせいで、大平課長が参加した総練習が上手くいかなかった。セリフはおろか兵藤との計算対決もミスってしまい、凹むしかなかったのである。

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