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第2章:魅惑的な先輩――5

「有坂くん、イヤな予感しない?」  同意する言葉をボソッと耳打ちされたので、有坂は激しく首を上下した。会計課に顔を出した飯島の態度は、明らかに兵藤を小バカにするものだったので、それの復讐をしに行くような気がしてならない。 「俺ら同期の中で、あんなふうに仲の悪いヤツなんていないから、ちょっと珍しいかも」 「呆れた……。何かあったら私たちにも、火の粉が飛んでくるかもしれないんだよ。嫌がらせされたら、どうしよう」  肩を竦めてオドオドしている青山とは対照的に、目の前にいる兵藤は怒りに満ち溢れていた。飯島からの火の粉より、目の前にいる兵藤から火の粉が飛んでくるんじゃないかと、有坂はこっそり予想してしまった。 「お前たち、覚えておけよ。シンクにあの不気味な湯飲みが放置されていたら、ここに来てアイツに注意すること。給湯室は公共の場なんだから、ああやってゴミを置きっぱなしにしておくなんて、もってのほかだからな」  兵藤は得意げに右手人差し指を立てて、懇切丁寧に説明してから、ガンガンガンと扉をノックした。そのノックがあまりにも激しいため、借金の取り立てに来た人みたいに見えた。  わざとらしくバーンと音を鳴らして扉を開け放つ兵藤の行動に、後ろにいた有坂と青山は恐れおののき、ひぃっと声をあげて、ちょっとだけ退いた。 「飯島テメェ、またしても不気味な湯飲みを給湯室に置きっぱなしにするなんて、ええ加減にしろ!」  これでもかという大きな怒鳴り声をあげた背中から、恐々と営業二課の様子を覗くと、皆さん慣れていらっしゃるのか、知らん顔して自分の仕事に勤しんでいる姿に驚くしかなかった。同じように覗き込んでいた青山が、隣で「すごっ」と呟く。 「はあぁ! 芸術をまーったく理解していないヤツは、そういう表現しかできないのな」 「何やと!?」  ボサボサ気味の短髪をなびかせて、太い眉毛を上げながら腰に手を当てた飯島が、わざわざ出迎えるようにやって来た。その顔は明らかに、兵藤を卑しめてやろうという感じだった。 「年度末が変わったから、湯飲みも新調したんだ。前使っていたのと絵柄が違うだろ。ラビッホさんからフェガーくんに衣替えしたというのに」 「ケッ! 不気味さに、拍車がかかっただけやないか」 「ラビッホさんって、全国限定販売三百個のヤツですか!?」  飯島のセリフに、有坂が思わず声をあげてしまった。それに反応して振り返った兵藤の顔が、何を言ってんだお前はという視線を投げかけたせいで、うっと息を飲み込む。  そんな兵藤を長い腕で押しのけ、ずいっと有坂の前に立ちはだかってきた飯島が、親しげにバシバシッと肩を叩いてきた。 「なぁなぁ『桃瀬ねたマンガ日和 』好きなのか?」 「そこまで好きとかじゃなく……。えっと、いち読者という感じでしょうか。ハハハ!」  それはたまたま、有坂が愛読している週刊誌に連載されていたマンガで、正直なところ暇つぶしに流し読みしている程度だった。全国限定販売三百個の件についても、こんなのが売れるんだろうかと逆に心配したので、偶然覚えていたネタだったりする。 「いち読者でもいいって! このマンガの話ができるヤツが、会社に入ってくるとはなぁ。兵藤、俺んトコの新人とコイツをチェンジしようぜ。楽しく仕事がしたいし」 「ダメに決まっとるやろう、何を言ってるんやアホ。コイツは俺のもんや!」  有坂の肩に置かれている飯島の手を、兵藤は勢いよくバシッと叩き落とし、守るように片腕で抱きしめた。  傍で見ている青山は「きゃあ、羨ましい」なんてはしゃぐし、兵藤のとった行動にさすがの営業二課の人たちも、ジロジロと自分らに視線を飛ばし始める。  予期せぬ接触に困惑し、有坂は傍にある兵藤の顔を見つめた。  身長が少ししか違わないからすぐ傍に眉目秀麗な顔があって、間近で見れば見るほどその端麗さに釘付けになる。しかも抱きしめられて、はじめて分かった。細身に見える兵藤の体は、意外なほどにガッチリしていた。 (この人、ジムとかに通って、こんな体形を作っているのかな?) 「どんなに頼まれても、有坂は渡さへん。それと、シンクに不気味な湯飲みを置きっぱなしにすんな、分かったな!」  回れ右をすべく、くるりとターンをして有坂の肩を抱き寄せたまま、その場を後にする。離れたくても、肩を強く掴まれているので、されるがままの状態をキープするしかなかった。 「飯島には、あれくらい強気で言ってやらなきゃダメだからな。分かったか?」 「分かりました。頑張ります!」 「はぁ、分かりました。あの……そろそろ放してもらえませんか?」  元気よく答えた青山のあとに、弱々しく口を開いた。兵藤にこれ以上、こんな形で守ってもらう必要はない。しかも自分との体格差に、こっそり落ち込んでしまった。 (――同じ男なのに顔だけじゃなく、すべてにおいて差がありすぎだ) 「あ、許してな。怒りにまかせてつい……」  肩を掴んでいた自分の手と、有坂の顔を見比べながら済まなそうに謝られても、有坂の中では正直なところ微妙だった。 「いえ……助かりました。飯島さんって迫力があって、ちょっとビビっちゃったので」 「アイツの迫力ねぇ。ムダに図々しいだけやと思うがな。青山さんはどう思った?」 「有坂くんの言う通り、迫力はあると思いますが――」  妙な雰囲気を拭うためなのか、青山に話しかけて会話を広げる兵藤の背中を、複雑な心境を抱えながら、ぼんやり眺めた。  見た目も中身も良すぎる人が先輩というのは、自然と自分と比較してしまって、いちいち劣等感に苛まれそうな気がする。しかも同性にあんなふうに守られてしまうなんて、情けないにもほどがある。  しかもよくよく考えたら、大平課長と噂になってる人だからこそ、誤って今日のくだりで噂になったりしたら、絶対に彼女ができないだろう。 「おい、有坂?」  考え込んでるところに不意に話しかけられたので、有坂が慌てて顔を上げたら、兵藤の右腕が自分に向かって伸びていた。ハッとしてその腕から逃れるように後退し、右側の壁に寄り添う。  空を切った兵藤の手が力なく下ろされるのを、ただ黙って見つめるしかない。 「何か驚かせたか? 済まないな」 「やっ、俺の方こそすみません。助けてくださったのに、お礼も言えずにぼんやりしてしまって。何でしょうか?」  どこか悲愴な表情を浮かべる兵藤に申し訳なくて、何度も頭を下げつつ、ニッコリと愛想笑いした。 (今の行動は、誰だってキズついてしまうものだ。しかもそれを先輩に発動してしまうなんて、これから仕事を教えてもらう立場なのに、絶対にやっちゃいけないだろ……) 「あー……何でもない。早くオフィスに戻って、仕事の流れ教えるな」  視線をあちこちに彷徨わせながら手早く言い放つと、さっさと身を翻し、足早に歩く兵藤の後ろを、青山とふたりで追いかける。 「ね、有坂くん何かあったの? 兵藤さんが、変に気を遣ってるように見えるんだけど」 「よく分からない。出逢い頭から突っかかってきたり、最初っから何かおかしいんだよな、あの人」  魅惑的な先輩なれど、青山と比べて自分に対する態度は、どこかおかしいとしか表現ができない。今に至っては、お互いに謝ってばかり。そのせいで翻弄されて、普通に接することができなかった。 (顔合わせだって今日が初めてだし、いきなり嫌われるというもの変な話だよな――)  ぐるぐる考えても埒が明かないので、新人らしく大人しく振舞おうと、有坂は心に決めたのだった。

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