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第3話

高校三年生になった時の公演会で、父が「お夏清十郎」を演目に出した。葉介はそれを聞いた時、お夏を自分が演じたい、と強く願った。清十郎を俊樹が舞う。彼に自分の思いを、強い情念を伝えたい。 そう心で願いながらも、お夏は当然桜子が踊ることになっていた。実力からすれば仕方ないと割り切りながらも、稽古で二人が舞う姿に心を痛めた。 舞台の上でのお夏は、純粋に一途に清十郎を想う。二人を隔てるものの深さに悩みながら恋焦がれる清十郎。そして全ての歯車が狂ったとき、お夏も狂い果て、そしてなおも清十郎を恋い慕う。自分も気がおかしくなりそうに想っていることを、俊樹に解ってほしいと願いつつも、ただ黙って稽古を眺めているだけだった。 葉介はその公演会で、名取になって始めて独演することになっていたが、自分の稽古よりも二人が気になってしかたがなかった。自分の演目は、源平を出典とした典型的な男舞いなのだが、なにせ力が入らない。 やれなよなよしすぎていると師匠には叱られるし、叱られているところを俊樹に見られるのも恥ずかしいし、公演の日は近づくわで四面楚歌の状態であった。 「葉介君、遊びにいこうか?」 ある日の学校帰り、既に大学生になった俊樹が校門のところで葉介を待っていた。 「俊樹さん。大学は?稽古は?今日はお弟子さん来る日でしょう?」 「今日は試験だったんだ。公演会も近いのに落ちつかないけれど、家元に学費を面倒見ていただいているから、きちんとけっかもださないとだからね。それより、今朝の葉介君が元気なかったから心配でね。」 「ごめんなさい。迷惑かけちゃいましたね。」 自分が踊りに身が入っていないことを知って諌めに来たのだろうと思っていたのに、意外であった。自分を見てくれていたという事実が少し葉介の気持ちを軽くし、そして二人の時間ができたことが嬉しかった。 公演会の事が心配だ、と告げると俊樹はそんな葉介をかばうように君も息抜きが必要だよと放課後の彼を誘って街に出た。普段ならまっすぐ稽古に向かおうと言うはずなのに、一緒に夕方の遊園地やゲームセンターではしゃいだ。 「どう、少し落ちついたかな?」 すっかり日の落ちた遊園地のパラソルの下でソフトクリームを食べながら俊樹が微笑みかけると、葉介は自分の悩みが馬鹿らしく感じるほど彼の優しさが嬉しかった。右田の前でしか見たことのない素の笑顔を見せてくれたことが、葉介をたまらなく満ち足りた気分にさせてくれた。 (やっぱり俊樹さんは、俺の事も気にかけてくれるんだ。) でも、それは桜子ちゃんの弟だから?そう思うと和む気持ちが一瞬で凍りついた。 「うん・・・もう大丈夫だよ。みんな心配しているから、戻って稽古しないと。」 立ちあがると意外そうな表情を見せたが、瞬時にして「お守」の表情に戻っていた。 途中で夕食を食べて、稽古に戻ると既に弟子達は帰った後で、シンとしていた。 「父さん、いや家元、怒っているかな?俺、稽古さぼったりして。」 「大丈夫だよ。学校に迎えに行く前に、僕の方から家元と奥様には許可をいただいていたから。」 浴衣に着替えながら小さく改悛している葉介の姿を見るのがまぶしいかのように、俊樹は少し背中を向けながら答えた。 なかなか実力がつかないことへの焦りはあったが、それでも葉介は踊る事が好きであった。踊る間は無我夢中になれた。何より、俊樹が自分を見つめていてくれるから。 既に原典には目を通して、自分の中で解釈は出来ている。若武者の荒ぶる若さを、天まで翔け上りそうな馬上の雄姿を。その若武者に、好いた人はいたのだろうか。彼の初陣姿を見て、どのように歌を詠み交わしたのだろうか。 舞い終え、扇をパチリと閉じると、俊樹がタオルを持って傍にやってきた。 少し休もう、と稽古場の脇の給湯室に二人で入ると、葉介はコーヒーをマグカップに注いで俊樹に渡した。兄弟子として葉介はこういった序列はきっちり守っている。 「いい形になってきたね。若武者のちはやぶる熱さを葉介君は見たんだね。」 ありがとう、と小さく言うとマグカップを受け取り、大事そうに両手で包んで口に運ぶと、いつもの優しい声で語りかけた。 「ええ、俺にとっても今度の公演会は初陣のようなものですから。名取になって、独演も初めてですし。」 「いい解釈だよね。でも僕は葉介君の舞う姿を見ていると、もっと違うものを感じるのだけれど。なんていうのだろうか・・・愛らしいといったら、高校生の男の子に失礼だろうか。」 (ドキリ。) 愛、という言葉を俊樹自身の口から聞いて葉介は耳までかっと熱くなった。 「お、俺・・・思ったんです。熱い血にはやった若武者なら、初陣の姿を見せたい思い人がいるかも知れないって。歌を交わすような人がいたのでは、そんな思いも表現できたらいいなと思って。」 「思い人?」 意外そうな顔をした俊樹と目が合うと葉介は少し恥ずかしくなって下を向いてしまった。自分はお門違いなことをしてしまったのだろうか。それよりも気がかりなのは、俊樹に自分の秘めた思いが露呈してしまうことが怖かった。姉の許嫁に横恋慕して、おまけに同性で。はなから叶わぬ思いと解っているだけに、俊樹に全て知られて軽蔑されることが何より怖かった。ずっと「可愛い弟弟子」のままでいればそれで十分だから。 「ユニークな解釈だね。中世ヨーロッパの騎士道のそれに近いものを感じるね。しかし葉介君が恋の話まで踏み込むとは驚いたよ。ひょっとして、誰か当てはまる人でも?」 突然瞳を覗き込まれるように畳みかけられて、葉介は答えることが出来なかった。吸いこまれるようにその瞳に魅入っていた。アーモンド型の美しい稜線に囲まれた蜂蜜色の瞳を見ていると、何もかも打ち明けてこの身体を捧げたい、そんな衝動に駆り立てた。 「あ・・・そんな余裕ないよ。大学の推薦試験もあるし、公演会もあるし。あ、そうだ。俊樹さんは”橋姫”は踊らないの?」 どうにか話題を変えると、俊樹は軽く深呼吸をした。 「橋姫は、単に踊りの腕が良いだけで舞うことができるものではないんだ。もっと奥が深い。」 「どんなものなの?」 ”橋姫”は先代新浪荘泉の十八番の女舞で、幻の名曲と言われていた。先代は女舞を得意としていたが、父はどちらかというとがっしりとした体駆の持ち主で、女舞を人前で踊ることはなかったが、俊樹にはその舞を伝授したと聞いていた。 「源氏物語の宇治十帖の”橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる”の歌だよね。」 創作舞踊”橋姫”は浮舟が宇治川に身を投げるまでの葛藤を表現していた。浮舟は薫の君がプラトニック・ラブを貫いた亡き恋人大君に生き写しであることから彼の寵愛を受けるが、ふと姿を見初めた匂宮にも身を任せてしまい、自分を自分として愛してくれる匂宮と、自分の庇護者でありながら誰かの代わりとしか見ていない俊樹の間で苦悩し、宇治川の精に呼び込まれるように川に身を投げる。 「宇治十帖は源氏物語本体と違う物語だとして区別する人もいるけれど、あれは前後編通して禁断の恋の話だよね。特に僕は宇治の話は好きだよ。」 「そうだ、主人公は俊樹の君だものね。」 「そう、それに・・・禁断の恋。」 「え?」 自分の心の内を見透かされているようで思わず顔を上げると、俊樹はさらっと流すように立ちあがると、稽古に戻ろうとマグカップを流しの洗い桶に置いた。 (…禁断の恋) 何気ない一言のはずだったのにその言葉が葉介の耳に残った。自分が意識しているからというのではなく、俊樹の言葉に含まれた重みを意識せざるを得なかった。  桜子ちゃんとは許嫁だというのに、他に好きな人がいるのかしら。プラトニックな関係なのだろうか。面ざしはどのようなのだろう。美しい人なのだろうか。舞いながらも、葉介の頭の中ではさっき目の前で聞いた俊樹の言葉が頭を巡っていた。あの時すぐに話をそらしてしまったけれど、俊樹さんは悩みを誰かに聞いてもらいたかったのではないかしら。そうしたら、俺はどんな表情でそれを聞いたらいいのだろう。笑って、応援しないといけないのだろうか。それとも、俺の”義兄さん”だから、俺の悩みを聞いてくれようとしたのかしら。 俺は、あなたの悩みを受け止めるほどあなたにとって重みのある人間ではないんです。そして、あなただからこそ、俺の悩みは知られてはいけないんです。 ただ、許されるのなら、ただ一度だけで良いから。 俺はこんな傍にいるから、俺を見てください。誰かの身代わりでもいいから、俺に一度でも触れてください。 (俊樹さん・・・俊樹さん・・・。) 「・・・!」 俊樹はかける言葉を失った。 槍を手に勇壮に舞っていた若武者の姿は消え、自分の前ではお夏が舞っていた。 葉介の女舞は、男にしておくのが惜しいほどに華やぎ、生来の細い身体は性を超えた妖精を思わせるほど透き通り軽やかであった。 正気を失い清十郎を求め彷徨う姿は狂おしく、時にこちらを誘う手の先は艶めいてさえいて、触れるもの全てを物狂おしくさせるほどの色香を放つ舞姿は、官能を求める女の情念と、一途な純真に溢れていた。この情念に触れたら、高野の聖であっても惑わされずにはいられなかっただろう。その肌を知れば、煉獄の炎に焼かれると知っていても。 「葉介君・・・。」 俊樹は衝動を抑えることが出来なかった。ふらりと立ちあがるとすがりつくように葉介を抱きしめた。突然の事に葉介はバランスを失い足がもつれ、二人荒々しく床に倒れ込んだ。ドサリという鈍い音がして、葉介は何が起こったかも解らずにいる間に、俊樹が強く唇を吸った。 (待って、俊樹さん・・・。) 抵抗しようにも、手首を抑えつける俊樹の力が強くて、キスされた事で頭の中がパニックになって力はぐにゃりと抜けてしまった。唇を割って入る舌が歯の裏をなぞり、深くさし込まれて口腔を存分に蹂躙すると、その心地よさに酔い、思わず葉介も舌を絡みつかせ、俊樹の口の中を同じように、少しぎこちなく味わった。唇を離す時のくちゅっ、という淫媚な音が静まり返った稽古場に響いた。耳元を辿る舌のザラリとする感触は全身をゾクリとさせるほどの衝撃で、葉介は声が洩れそうになるのを我慢するので精一杯だった。 「ああぁっ。」 押し付けられた脚の間で俊樹自身が堅くなっているのが感じられ、本能から来る溢れそうな興奮に葉介は切なげな声をあげてのけぞり、俊樹はその咽喉元に吸いついた。 「俊樹さん・・・だめ・・・。」 このままでは、自分はもっと淫らになってしまう。この人に、全て知られてしまう…これって不倫なのかしら・・・。 「だめ・・・止めて・・・。」 思わずこぼれた涙を見て俊樹ははっと我に返って身を離した。 「ひどい・・・。」 俺が迂闊にも清姫を舞ったからって桜子ちゃんと間違えるなんて。俺を、その代わりにするなんて。 「葉介君、すまなかった・・・。」 言い終える前に葉介は浴衣の袷を押さえて稽古場を泣きながら飛び出した。

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