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15 否、蛍ですって
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暫くの間があった。痛みもなく、なにを考えるでもない沈黙のあと、静かに簑島が車から降りた。自分の状態を確認するとフロントガラスに顔を打ち付けて、右腕をその隙間に挟む状態になっていた。息をすると左胸が痛い。ハンドルにぶつかったとき拳銃で胸を打ったらしい。座席におねぇ座りしていて、左の靴が脱げていた。後部座席に落ちていたので、腕を伸ばして拾うと胸がゼイゼイと音を立てた。
何度か深呼吸をして車を降りる。
車に寄りかかり、腕組をするように身体を抱きしめ、やや俯き加減の簑島がいた。
「お怪我、ありませんか?」
「大丈夫だ」
「申し訳ありません」
「……お前は大丈夫か?」
月明りが簑島の頬を白く照らした。手の届かない距離を保った自分を冷静だと感じた。
冷たい水でも飲みたいところだが、そういえば本庁を出てから一度も水分補給をしていない。せめて所轄に寄ったときにでも気づけばよかった。これが、初回デートだとしたら最後にLINEの交換もしてもらえないだろう、いやいや、デートだとしたら緻密に計算をして、行く道を徹底的に調べ迷子になることもなければ、コースの中でおしゃれなカフェを設定して朗らかなな会話を弾ませていることだろう、細い指でストローをかき回し、アイスティーがその白い喉を通り簑島は微笑みながらいうだろう、早く次の場所へ……。
「あれ、なんだ?」
妄想を断ち切って簑島が腕を伸ばした。車はいつの間にか細い砂利道を抜け、広いロータリーのような道へ出ていた。舗装された道沿いにはガードレールがあり、車はガードレールすれすれに反対方向を向いて止まっていた。つまりスリップして車は反転、助手席側がガードレール側に回ったのだ。簑島が指し示す方向を見ると深い底にちらちらと月明りを反射する水面が移った。川が流れているのだろうか。2、30メートルはある。鬱蒼とした草木の間からぼんやりと炎のようなものが浮き上がっていた。
「……蛍では?」
炎のような小さな明かりはふわりふわりと浮き上がった。下にあるという感覚から大きさはわからないが、ただ蛍の光とは少し違う、まさに炎のように燃え上がるように縦に伸び、横に広がり、中心部が青に光ったり黄色になったり、大きさや形を変えながら浮き上がってきた。やがて目の前の高さとなり、さらに上へ上へと上がっていく。
「……?」
蛍ではない。だとしたら? 誰かが下で焚火でもして灰の一部が舞い上がったのだろう。だとしたら、下にそれらしきものが見えてもいいはずだか、川沿いに人がキャンプできるようなスペースはなく、薪の痕跡もない。もう一度上を見ると、炎を消えることもなく、すーっと方向を変え、山の方へ移動していった。
ひ、人魂? 全身の毛穴が開ききって、膿のように汗がどろりと落ちる感覚を覚え、背筋が凍った。
「油返しかな?」
面白いとでもいうように、簑島が柔らかい声で言った。
「……は?」
「油返し、知らない?」
ぎこちなく顔を向けると簑島は微笑みながら、炎の行方を目で追った。
「初夏の闇夜に池や川から現れて、鬼火のように空に昇っていく妖怪。お寺の油を盗んだ者の魂が、炎と化して登っていくんだって」
妖怪? 妖怪話を微笑みながらできます?
「お寺に油を返しに? その前に使い切っちゃいそうですね」
「ふ。確かに」
妖怪の話で笑えます? 益々身体が硬直した。喉を潤したいところなのに、さらに身体中から血の気を含めて水分が抜けていくのを感じた。
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