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19 寝てる場合じゃない

   *  山は好きだ。山は夜更けに空気や空と一体化する。人の吐いた二酸化炭素と緑の吐いた綺麗な酸素をもっと細かく分離して、道端の埃や花粉を巻き上げて増幅する。ごみの浮いた水面を掬い、汚したオゾンも引っ掻き、細かく分離して、綺麗なものに変わろうとする時、世界は一体化するのだ。知らないふりで、虫が鳴き、星が瞬き、消える運命の地球を見守りつつも、まだ続く明日のためにすべてをリセットしようとするのだ。抵抗することなく邪魔することなく、人は静かに眠りにつくべきだ。  文明の利器を捨て、山の中にいるのなら、自然の摂理に合わせるべきだが、なぜか遠くでエンジン音が聞こえた気がした。今日は風が強い。木々の囁きだろうと打ち消すことにした。このまま眠り続けたい。  ところが、いつの間にかすぐ側に殺気があった。  身構える間もなく、顎が飛ぶような衝撃があった。寝ている人間の顎を問答無用で蹴ることができるのは獣以外にいないだろう。いやむしろ、獣であって欲しいと願う。声も出さずに転がって距離を取り、身体を丸めながら顎をさすった。まだある。痛みどころか感覚はないが、とりあえず手に触れる顎はまだあることに安心する。顎関節がはずれたかもしれないが、血は出ていないようだ。 「か……が……」  声を出しながらずれた顎の修正をする。 「寝てる場合じゃない。支度しろ」  獣が低い声を出した。布団の上で丸まりながら、足元を確認する。畳の上に軍用ブーツ、ああ見上げるまでもなくデカパイ様だ。 「支度とは?」 「パンツ一丁で動きやすいというならそのまま引きずっていく」  黒い手袋の裾を引き、フィットさせながらデカパイがいう。 「どこへ?」  腰に手を当てて、デカパイが溜息をついた。 「私たちの組織に手を貸してくれている者がピンチだ」  私たちとは銃器密売組織のことだ、鄭社長の組織に手を貸す者? 「情報とまではいわない、お互いに役立つ情報を開示していた。猫が動くとき、鈴がなればいい」  口から耳元のあたりまでグリグリと指で圧しながら、顔が正常な形に戻っているかを確認をし、視線を外さないよう注意しながら話を聞く。銃器は暴力団から反グレ組織のみならず、国内に滞在する外国人まで必要とする人は多いものだ。特に外国人となると海外マフィアはもとより政府要人にも絡んでくる。取引の相手は常に洗う必要があり、バックボーンや金の出どころまで、怪しい組織や後ろ暗い繋がりのある団体とは取引をしないよう、常にアンテナを張っているという話は聞いた。 「何色の猫が?」 「……サクラだ」  昔の話だ。もう自分の関係していた母体は潰れたし、鄭社長が俺の人生を買い取って一介の農民にしてくれたはずだ。 「ケーサツに知り合いはいねぇよ」  デカパイが眉を動かす。 「二度と、会えなくなってもいい人も?」  真顔で尋ねられてシーツに目を落とした。が、一瞬で背筋に力を入れて顎を引き上体を反らすことができたおかげで、目の前の黒い風を見送れた。初めてデカパイの蹴りを躱せた。 「すぐ支度する」  返事も聞かずにデカパイが歩き出す。作業ズボンを穿きシャツを掴んで後を追った。

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