30 / 36
30 自分は元気です!
*
パトカーが何台も頭上を通りすぎていき、クソまみれでも涙が出た。
あり得ないうん〇を踏んでにゅうぅ~ぅ~るっと滑って転落した。愛しの簑島を守るのは自分だけだ。自分の役目なのだ。転落してすぐ動こうと思ったが、両足があらぬ方向へ曲がっていた。立ち上がろうとしても動けなかった。おまけに「転落してすぐ」のはずなのに、月が小馬鹿にするように稜線に寄り添い、白く靄って朝の気配を漂わせていた。こんな危険な場所で悠長に寝ていたというのか? 否、人生初の気を失うという体験だ。
さあ、立ち上がってヒーロー参上とかっこよく簑島を助けに行くとしようではないか。
きっと自分の代わりに掴まってしまったであろう簑島を、男らは縛って服を剥いで詰問攻めにするだろう。ああ、何人――二人だったはずが簑島の美しさに吸い寄せられて増殖しただろう大勢の屈強な男に囲まれてしまうのだろうか、それともロープで縛られて吊るされて、あの白い肌にロープの擦れた跡が付き、荒い縄で擦られた可憐な乳首が、廃屋の錆び付いた壁の穴から差し込む朝日に照らされて、男らを興奮させるだろう、膝を抱え上げられ、後ろから尻を掴まれ、「さあ、どっちのが先に欲しい」なんて言われて、さらに美しさを増す可憐な乳首を別の男がしゃぶる、自分に助けをもとめて他人に見せない顔で泣くかもしれない、「権藤、助けて……」。
「っふ……う……」
考えるだけでもおぞましい。朝の生理現象だ、湿った川沿いに寝転んでいても、下着の捩れや脇腹のゴムの伸び具合で、今日も健康な朝を迎えたことを察知する。ああ、早く行かなくては。
ボシャ!
妄想に閉じてた瞼を押しつぶすように何かが顔に振ってきた。察知しようとして息を吸ったらとてつもなく臭かった。思わず息を止めるが、
ボシャボシャボシャ!
立て続けに臭いもので顔を覆われた。
「ひぐッ!」
息ができない。悲鳴を上げてしまったら、口の中にも異臭がドロンと流れてきた。
「ぼへっ、うげっ、ぶっ、ぶっ」
吐き出す勢いより、口に流れ込む量の方が多くて気絶しそうになりながら、吐き続けるが、妄想も止まらない。猿轡を噛まされた簑島が後ろから男に抱きあげられる。屈強な男が踵を高く上げて無理やりねじ込もうとする。待て待て待てぇい、その役目は自分の――。
妄想を断ち切るサイレンが近寄ってきて、慌てて手を伸ばしたが、川沿いから道路までは手が伸びない。必死で声を出そうとしたが、やっと吐き出したものがまた口の中に戻ってくる。いっそ飲んでしまった方が楽か――。パトカーが何台も頭上を通りすぎていき、クソまみれでも涙が出た。
脳に酸素が回らず、またしても気絶した。
丸一日寝てたという。尿瓶をあてがいながら、おばちゃん天使がげたげた笑う。
「元気すぎてこぼれちゃうっぺ」
「あ…! やば、来た」
その言葉に、おばちゃん天使は尿瓶を手放し素早く離れると、腕組しながら呟いた。
「やっぱオムツした方がええな」
ギュルルルルン。おばちゃん天使の声をかき消すように腹がなった。
両足骨折と糞線虫感染症。トイレにいけないのに下痢と嘔吐の繰り返し。馬よりも臭い自分の汚物の臭いをずっと嗅ぐはめになった。
感染症のため、おばちゃん天使以外だれもこなかった。一度だけ、うちの主任がドアを開けて怒鳴った。
「このクソヤロー! 権藤、てめーは降格だからな! いらぬ恥かかせやがって。クソヤローにふさわしいクソ地方に送ってやるから覚悟しておけ」
明日はない。そういう読みは正しかった。
大丈夫、妄想だとしても映像は鮮明だから、この愛が薄れることはない。試練を乗り越え、すぐにでも簑島のもとへと駆けつけるであろう。そう思うだけでも幸せだった。
尿瓶がペコリとあらぬ方向へ曲がり、ベッドをじんわりと濡らした。
*
両足骨折といっても石膏で固めてしまえば歩けないこともないので、腹の調子が戻るとすぐに退院できたが、簑島はもっと時間がかかるらしいことを聞いた。
銃で撃たれたという。運ばれてきたときは腕にも顔にも包帯を巻いていたというので、可哀そうに思った。健康的に妄想していたことにちょっぴり罪悪感が生まれる。事件についての聴取は自分は10分程度で終わってしまったのに、簑島のほうには何度も何日も続いたらしい。自分が舞台退場してからも一人で戦い、おまけに見えてなかった事件の全貌も暴いて、解決に導いてしまうなんてやっぱりこの人は天才だなと思った。
しかし自分の銃を奪われた上に、その銃で撃たれたとなると降格になる可能性もあるから、もしかすると自分と同じ処分になる可能性もある。悪いと思いながらも、胸が膨らんだ。だが、噂によると簑島の家系はどこぞの財閥と繋がりがあり、祖父は現在の厚労省の大臣であり、親族にも警視庁並びに外務省、公安、海外の大使館勤めの者やら、上から下まで右から左に至る隅々までエリート揃いだという。もしかすると、復帰後何日も謝罪のための膨大な文章を書き起こしている自分とは、違う扱いになる可能性もある。
するとやっぱり、明日がない。せっかくお近づきになれたというのに。手を休めて入口を見る。簑島が現れた時の、あの空気を洗浄するような神々しい姿を今でも鮮明に覚えている。通路を通り過ぎる姿も、あの姿勢のよい後ろ姿も――。
ともだちにシェアしよう!