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31 貴方とともに

   *  もう二度と見れなくなると思うと、せめて後ろ姿だけでもと思い、ようやく退院したという噂を聞いたときは、女子社員に交じって廊下で張り付いて見た。足を撃たれたというのに、杖をつくことも、轢きずることもなく、ちょっとゆっくりの歩調で、やはり正しい姿勢のまま歩いていた。弱っているところを見せない男の美学が、背景に薔薇を添える。復帰初日はなんと、総監と監察官のもとへ呼ばれただけで、帰ってしまったという。くそぉ、後をつけようと思ったのに。  翌日、簑島の謹慎処分が下った。銃を民間人に奪われ利用されたことと、同僚を危険な目にあわせるほどの行き過ぎた捜査への処分だという。ヤバい、これは自分が直接顔を合わせて謝らないといけない。しかし、簑島には謹慎処分が早くも出されたというのに、自分の処分はまだ出ていないということは、確実に自分の人事異動は決定事項だ。  謝罪するつもりで5課に身を潜めて近づき、机の影に隠れた。簑島は警察手帳と手錠を主任の机に置いて、頭を下げている最中だった。 「ま、謹慎といっても、完治するまでしばらくゆっくりしてろって意味だ。おとなしく、ゆっくり治せ」  ゴマ塩が優しい言葉をかけている。 「ご迷惑おかけして申し訳ございません。失礼します」  細い声が聞こえた。さすがの簑島も弱っているのだろうか。歩き出した後ろ姿を眺める、ゆっくりとした歩調。これでは途中で暴漢にでも襲われたら応戦できないだろう。可哀そうに。やはり、最後まで貴方を守るのは自分の仕事のようです。四つん這いでコソコソと部屋から出て、廊下の壁や人の影に隠れながら尾行を開始した。簑島がエレベータのボタンを押したとき、部屋から4課のタコ主任の怒鳴り声が聞こえた。 「権藤! このクソヤロー、どこ行った?」  非常階段の扉を開けて猛ダッシュで先回りすることにした。    *  真っ直ぐ帰るのかと思ったら、日比谷公園の方へ渡り、キッチンカーでパンとドリンクを買い、公園の中へ入っていく。愛想のよいツインテールの店員がバイバイと手を振って見送っていた。簑島は、首かけイチョウの側のベンチに腰を下ろすと、パンを食べ、ドリンクをゆっくりと飲みながら、ポケットからイヤホンを出すと耳に当てて目を閉じた。音楽でも聴いているのだろうか? 時々口ずさんでいるのか、唇がかすかに動く。  自然体の簑島、公園のベンチで柔らかな午後の陽射しを受け、お気に入りの音楽を聴きながら穏やかに過ごす。謹慎を食らってしまったけど、落ち込むことなく気分転換ができるとは素晴らしい。デートコースはやはり、映画や水族館よりも公園や海の方がいいだろう。  「拓哉、次は海がみたいな」なんて言われちゃって、「今からじゃ日が暮れちゃいますよ」と言っても冷ややかに助手席で頬杖をつきながら、「海、海」というのだろう、夕暮れの海を二人で歩いて、まだ頑張ればてっぺんまでには帰れるのに、お泊りなんかを匂わせつつゆったり晩御飯を食べて、簑島に奨められてワインを飲んでしまったからには、お泊り決定ですねという具合に、ああ、そうだな、泊まるならホテルより旅館とかの方がいいですか? 浴衣ですよね、湯上りの――。  あまりにぼんやりしている時間が長かったので、妄想の中では3泊目の夜を迎えていた。一度オムツ生活になれると、妄想で勃起してしまう人間にはありがたい武器だった。ただ立ち小便ができないので、毎回個室というのが面倒だが、今時の大人用オムツはカサカサ言わないしスリムだし、ただ、2~3回発射してしまうとゴワゴワと前が重くなって居心地も悪くなるので、妄想の3泊は辛かった。  トイレに行ってオムツを取り換えるべきか悩んでいると、簑島がようやく立ち上がった。地下鉄の駅へ降りて行く。日比谷線のホームを歩き千代田線のホームへと向かう。あまりに入り組んだ道のりだったので、もしかして、尾行に気づかれたかとドキドキしたが、鈍行を待って電車に乗った。同じ車両の離れたドアから乗り込むと、簑島に背を向けるようにして立った。時々振り向いて確認するが、隣に立っていたOLが嫌悪感丸出しで場所を移動する。勘違いも甚だしい、失敬な奴だ。  代々木公園駅で出発のベルと同時に簑島が下りた。危うく、巻かれるところだったが、なんとか降りることに成功した。軽く足を挟まれたので、簑島に見られないように柱の陰で、悶絶する。そっと覗くと簑島は、ドアの開閉をやり直している電車を振り返り、閉まるまで見つめていた。簑島の目線の先をみると、さえないスーツの中年男が、降りそこなったとでもいうように、窓に手を当てているのが見えた。  ん? 自分以外に尾行班がいた? 簑島はその場で立ち止まり、ホームに人がいなくなるのを待ってエスカレーターを登っていく。姿が消えるのをまって、エスカレーターを駆け上がり尾行を再開する。  やはり立派な家系というのは本当のようだ。このあたり一体は、政治家やちょっと名の知れたミュージシャンなんかが住んでいることでも有名な高級住宅街だ。豪邸と億ションが立ち並んでいるエリアを簑島がゆっくりとした速度で進む。  角の壁に張り付いてみていると、不意に背中に何かを押し付けられた。 「動くな」  低い声が耳元に聞こえた。一気に緊張して顎が凍りついたように動かなくなる。両手を上げて抵抗する気はまるでないことを伝える。簑島が道路を右に曲がるところまで見えた。サラリーマンが忌々しいものでも見るように横を通り過ぎる。 「不審者がいるという通報があった」  後ろから声がする。まさか……。 「ままま待ってください、自分は警視庁……」  胸ポケットから手帳を出そうとしたが、背中に当てられたものを強く押されて、またお手上げ状態に戻す。 「警視庁監査室の目の前で、まさかのストーカーか?」  え? 監査室? 青天の霹靂? ビビビビビッ! 身体に電気が走ったと思った瞬間に落ちた。壁に額を擦って血が出たのと、ちょっとチビった感覚だけ認識して道路に倒れた。男の手元にぼんやりスタンガンが見えた。  簑島渉。やはり噂通りの人気者。噂通りのキレモノ。  さよなら、マイヴィーナス。

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