＊ 　駅を出ると西の空に雨雲が立ち込めていた。最近では気象衛星も精巧なデータを出すようになって、ゲリラ豪雨まで予想する。予想できるとなるとゲリラではない気がするが、夕立という勢いや量ではない雨が降ったりする。ゴロゴロと小さく雷の音も聞こえる。生暖かい風が吹く中、家へと急いだ。 　完璧なアリバイほど、胡散臭いと思われるのは世の常だ。あまりにも淀みなく、スムーズすぎる事件解決だったと監査室に呼びつけられて嫌味を言われた時点で、監視が付くのだろうとは思っていたが、まさか自宅までついてくるとは思わなかった。だが、暴力団のあとは反グレ組織、事件解決とはいえその度拘束されているようじゃ、裏取引があったのではないかと疑われても仕方ない。 　謹慎中まで見張られるのは堪らないので、普段利用している近くの安アパートではなく、実家として登録してある住所へ戻った。誰も使っていないし、周辺に同じ高さの部屋もないので、外から覗かれることも、サーモカメラで監視されることもない。主任に言われたとおり、静かにゆっくり過ごしたかった。正門をくぐるとそこからセキュリティ対策が施されているので、用のない客は入れない。尾行していたものが、うろうろと行き過ぎるのを正面玄関のガラスで確認し、コンシェルジュに会釈して通り過ぎた。 　熱を持った痛みはだいぶ引いたものの、長く歩くと足の付け根から熱を発し徐々に全身に疲労感を伝える。膝や踵がスムーズに動かないので、歩くスピードが緩やかになる。松葉杖を借りるべきだと勧められたが、怪我をした腕の力も頼りにならないので、諦めた。ようやく部屋に辿り着いて、ほっとしてしまった。 　鍵をあけ、一歩入った瞬間に後ろの気配に気づいた。 「！」 　後ろから口元を押さえられる。ドアが閉まり、ロックされる音が聞こえた。応戦しようと手を上げかけて、止まった。後ろから回された日焼けした腕に見覚えがあったから。抵抗する様子がないと知ると口元の手を肩へ落として、両腕で抱き締めてきた。 「不用心だぞ？」 　ありえない。 「どうやって入った？」 「つけてきた。警察の人とか、ストーカーとか、引き連れて歩くなよ。メンドクサイな」 　ストーカー？　徳重本人のことを言っているのだろうか？　今回のことで自分だけではなく徳重も鄭社長の組織とつながりがあることを知った。鄭社長の組織から情報を買うこともできると思うと、本当のことを言っていたとしても信用できるものではない。ゆっくり休むつもりがとんだ誤算だ。 　腕を払って靴を脱ぎ、リビングへ進む。誰も使っていない部屋でもハウスキーパーが掃除をし、２～３日分の食糧を常備するように依頼されているため、綺麗に整っている。ダイニングテーブルには誰も見ることはなかったかもしれない大輪のシャクヤクの花が飾られている。正月に母方の親戚が集まったというが最近は使われていない。無駄な資産の一つだ。カーテンを開けて、広い窓から外を眺める。目の前に何もないマンションからの眺望はよいというが、ただ都会の風景が見えるだけだ。なにも面白くない。窓を眺めていると雨が降ってきた。空も町も、一気にグレーに霞む。徳重は横に立ってぼんやりと霞む都会を眺めている。 「すぐ会える。呼べばいつでもオマエのもとに行く」 　怪我や病気をすると人は心細くなる。熱に浮かされて何度も夢を見た。何度も呼んだはずだ。来なかったくせに。唇をそっと噛んで、高いビルの避雷針に雷が走るのを見た。隣に立つ男の、突き出た喉仏のラインが白く浮き立つ。何故か沸々と怒りが湧いて来たので、沈めるために窓の外を眺めることにした。雷がいくつも鉄塔の先や、ビルの避雷針に走り、雨が視界を歪めるのを黙ってみていた。 　思えば、こいつの家に潜入したときだってそうだ。 　証拠品として警視庁で押収していた銃器のいくつかが消え、それが筒美会に渡ったという噂があり筒美会に接近した。だがそれ自体は空振りに終わった。潰れた筒美会の代わりに消えた銃器を扱える者がいるとするなら、とターゲットとなったのが徳重だ。徳重は筒美会のフロント企業で金庫番をしていた男だが、組本体が潰れるや否や、会社を解体して社員を解散し、池袋の塒も、所有権のあるタワマンも売りさばいてＩターンで農業を始めた。取引は愚か、誰かと連絡を取り合うこともなく、ただ呑気に農村暮らしを満喫し始めたのだ。動きは一向になかった。寝かせておくと言う手もあるため、ブツの捜索を鄭社長に委ね、こちらは人物の動きを探る予定だったが、それらしい者と接触もしなければ、ＰＣもスマホもない農村生活に馴染んでいった。完全に農業を楽しんでいるようにみえた。食物や衣類も頂くし、風呂もトイレも借りてるし、寝てる間につまみ食いまでしてみても、こいつはちっとも感心を持たなかった。挙句の果てに、対面した暁にはどこまで信じているのか、「座敷童だ」と名乗った自分を最後まで信じているかのように、その設定でやり通していた。 「なぁ、ザッシー」 「だから、それやめろ」 　目線を反らして歩き出すと、行く手を遮るように徳重の手が壁に押し付けられる。知ってか知らずか、ウォールドアの一枚目が押されて次々にスライドし、隣にある寝室が広がる。手をついた先がなくなったので、仰け反りはしたが、然して驚いた様子も見せない。 「ここ、オマエんち？」 「……のようなもの」 　寝室にはキングサイズのベッドがある。誘っているのか、怒っているのか、自分の感情が分からないまま、上着を脱いで投げつけた。目の前にいた徳重をすり抜けて上着はソファーにかかる。ゆっくりと距離を詰めてくるハンターを睨み、壁にもたれかかった。 　徳重の固い指先が頬に触れた。 「何怒ってんだ？」 　親指が鼻先に触れ、大きな掌が顎のあたりまで熱を伝える。右のつま先が触れ、全身が密着するほど触れ合う距離にあることを知る。腕を伸ばして腰のあたりのシャツを掴むと、右手でメガネを外された。近づいてくる口元を手で抑えて、首を振る。 「呼んでない」 「……呼ばせてやるよ」 　指を挟んだまま、口接けてきた。舌を伸ばして指の股を舐められると、神経に直接触れられたように、ゾクリとした。 「……まだ、完治してない」 　抑えるはずの指先が震え、役目を成してないことに気づき手を下ろすと、唇に懐かしい感触がすぐに寄せられた。徳重の舌が上唇を持ち上げるように動き、凶器のような視線が容赦なく突き刺さった。重ねた唇が動く。 「少し、熱っぽいのはそのせい？」 　低い声にゾクリとした。頷いて両手で押し返すように、徳重に胸に置くと、片頬をあげて意地悪な笑顔を作った。 「ごめん、また優しくしてやれない」