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35 たとえ嘘でも

   *  敷きっぱなしの布団を万年床というが、ベッドに慣れている人ほどシーツはさほど洗わないという。徳重の場合、雨でも降らなければ、週に2~3回はシーツと枕カバー代わりのタオルも洗濯していた。バスタオルとフェイスタオル、手洗い用のタオルも分けており、着る服とともに小まめに洗濯していたところを見ると、育ちはよいのではないかと思っていた。  果てたあと、抱き上げられてバスルームへ向かった。まだ続くのかと身構えたが、軽くイチャつく程度のシャワーを浴びて終わった。乳首が好きなだけで、変態ではないのかもしれない。  徳重の家に潜入したとき下着を拝借しなかったことを聞かれたが、下着とクシと歯ブラシは好き同士でも家族でも共有はできないものだ。そのあたりの価値観は似ているのか、歯ブラシと着替えを要求された。歯ブラシくらいはゲスト用として用意があるが、自分はどちらかというと裸族だ。家ではシャツ一枚でいることが多い、が、ゲストにそれを強いるわけにはいかないので、寝間着替わりにバスローブを渡した。同様にバスローブを身に纏うとソファーへ連れていかれ、太腿の包帯を変えてくれた。  あとは徳重が好きなように動いた。先ほど汚した床や壁を掃除して、ベッドメイキングをし、ほったらかしのスーツもハンガーにかけてクローゼットにしまい、当たり前のように洗濯機を回す。  時間は夜8時。開けっ放しのカーテンを閉め、ワインシェルフから適当に一本取り出して飲み始めると、徳重が冷蔵庫からあらゆるチーズを出してきて座った。  ケチのつけようがなくて、収まったはずの怒りがまた湧いてくる。農村では酒もタバコもやらなかったので、ワインで酔わせてみようかと、「ちょっとくれ」と出されたグラスに日本酒のようになみなみと注いでやったが、「あ、もぅー、えー、恐縮です」と喜ばせるだけだった。  表面張力で溢れそうなワイングラスをそっと引き寄せて啜る。ぎゅっと目を閉じると「美味い」と呟いた。口の中の余韻を味わうようにまた鼻にしわを寄せる姿が、なんだか可愛くみえてしまう。軽く咳払いをして続けた。 「事件が片付いたと聞いてやってきたのか?」 「え? 片付いたの?」  もう一口吸い付くように唇を突き出しながら、徳重が驚いたような顔を見せる。 「……じゃ、何しに?」  言い淀むように頭を掻き、 「……そのぉ、かっこよく立ち去ったものの、やっぱ、会いたかったので」  こちらを伺う。 「かっこよく? は、なかったと思うが?」  そう言ってみたが「むぅ」と唸りながらもワインを啜ると満足そうに頷く。こっちがどう思っているかより、ワインの方に気を取られているようで、それもムカつく。徳重が食器棚の薄い引き出しからペディナイフを持ち出し、下の扉を開いて木目のボードを出してきた。チーズをスライスして盛り付ける。チーズの形によって切り方を変えている。考えも及ばないところにも、徳重の知識を感じる。眼鏡を人差し指で押し上げて考える。この家にしろ、服部邸にしろ、初見で動ける洞察力はなんだろうか? 鄭社長のところで、見てきたように事細かい資料を売っているという可能性もあるが、ぱっとみただけで覚えられるものでもない。何度もここへきている自分ですら、スタンドライトの位置や、ナイフの収納場所などうろ覚えだというのに。ただ、自らの利益にならないことには一切手を貸さない鄭の組織が、この家の間取りや食器の位置まで把握しているはずもない。 「俺が監禁されている場所も知っていたのか?」  疑問をぶつけてみる。 「いや、地下があるなんて、見取り図には描いてなかったんだけど」  シェーブルタイプのチーズを齧り、震えるように美味いと呟き、ワインを飲んで上機嫌になっている。軽く苛立って先を促す。 「ならば何故わかった?」 「柱の位置と家具の位置が不自然なところがあったから、かな?」  こいつをバカだと思っていた自分が間違っていたのだろう。色の濃いチーズを齧ると燻製された臭いが広がり、ワインを啜った。グラスを回しながら、深紅の液体が回る様を眺める。 「鄭社長があんたを調査員としてスカウトしたそうじゃないか」 「ん? 農業の方が面白いから断ったぞ」  徳重はブルーチーズを手にして臭いにたじろぎ、眺めまわしている。小さく齧って「ほお!」と納得したようにワインを飲み、同じようにちびちびと齧りながらワインを飲む。  農業の方が面白いのか。そんな風に、知らないことに触れて実力を試す方が、徳重にとっては面白いのかもしれない。あの時、任務だと言っていたのに、契約金は支払われていないという。徳重に与えられた任務は二つ。『銃取引の黒幕を暴いて根源を叩くこと。簑島を奪還すること』、だが、『黒幕を暴く』ことを徳重は放棄した。あの場でもっとも胡散臭い金井を拉致してあとは組織に任せ、俺を助けることを優先にしたのだ。組織に手間をかけた分は当然チャラだと言ってはいたが……。 「救急車を呼んだのはあんただろう?」  切り込んでみたが、徳重は目を合わせようとしない。山間部で起きた殺傷事件で、十数人が死傷しているなか、最初に到着した救急車が誰を運ぶかといえば、生存率の高そうな者からになる。失血死寸前の意識を失った刑事を優先にするには、奥で惨事があるとは知らないという設定が必要だ。 「救急隊の話では、玄関先で俺を抱きかかえていた品川という男は、身長185センチくらいで日焼けした健康的な男だったそうだが、俺が知っている品川は、身長160センチくらいの神経質そうな青白い男だ」  銃声を聞いたとういう市民からの通報で、数台の警察車両と救急車が来たのはもっと後だ。自分が見つけられた場所は地下だと思っていただけに、調書でつじつまがあわなかったのは、唯一その部分だけだった。  しばらく眺めていると、徳重がワイングラスをあおって一気に半分ほど流し込み、片頬を上げて笑った。 「向いてないんだよ、こういうの」 「…あんたが相棒だったら楽だったろうな」  ポツリと思ったことが出てしまい、ワイングラスを傾ける。  組織を含め確度の高い情報屋を多く抱えているせいで事件解決率は高い。だが、情報に物証や根拠が伴わないことが多いため、それなりにスレスレの捜査をするはめになる。筒美会の件で相棒の成り手はいなくなった。高評価はするものの一言で言えば腫物だ。刑事なら一線で活躍したいが、命の危険にさらされたくはない。今回隣の部署の新人が手を上げてくれたものの、自分だけではなく危険な目に遭わせてしまった。またしても相棒には恵まれなくなりそうだ。肘をついて指先に口元を押し付けるようにした。眼鏡の淵からすっと徳重が手を上げるのが見えた。 「困ったときは俺を呼べ。いつでも助けにいってやるから」  目線を上げると自信あり気に笑みを作る。 「警察に協力するのは市民の義務だろ? 別におかしくないだろ?」  おかしいだろ? むしろ、 「30までなら警察官になれるぞ」 「いや、別に警察官にはなりたくない」  徳重が全力で嫌がるように首を振った。ん? 何か引っかかったが、徳重が真面目な顔をするので、つい見入ってしまった。 「ホントにさ、危険な目に遭うくらいなら、俺を呼べよ。俺一人で片付けてきてやるから」  直接呼ぶ方が確かに楽だろうが、良いイメージにはたどり着けない。 「……心配しながら待つより、自分で動いた方が楽だ」 「心配、しないだろ?」  茶化すように徳重が笑う。 「完全無欠のヒーローなら、徳重の人間性も感情も傷付けずに俺の元へ還してくれると約束するだろうが、そんなヒーローはいないだろ?」 「……ザッシー」  徳重が驚いたような表情を見せる。酔ったのだろうか? 驚かすようなことは言っていないつもりだったが、そんなところで笑うから杭を打ちたくなったのは確かだ。 「それとも一報酬一エッチの方が分かりやすくいいか?」 「ザッシー……」  徳重が眉を寄せてフルフルと首を振った。獣だと思っていたが、案外可愛いものだ。 「来年は昇進する。あんたが住む参村の署長くらいなら、希望すればなれるだろうからそれでもいいかもな」  そう言い放つと徳重が口をあんぐりひらきながら、声に出さず「署長」と繰り返した。 「年齢的に20代だと嫌がられるから、せめて来年まで待とうかと…」 「え?」  ん? 徳重が眉間にしわを寄せた。 「来年まで待つと……30って意味か?」  答える代わりにメガネを押し上げると、重力に引っ張られたように、徳重の顔がテーブルに落ちた。 「オマエの方が年上だったとは……」  ――待て、落ち込むのはこっちだ。    *  ワインの2本目を開けようとしたが、徳重に抱きかかえられ、並んで歯磨きをした。目線が泳いでしまうのが怖くて、鏡から逃れるように、徳重の背中に寄りかかる。この体温と逞しさに落ち着く自分がいる。  呼んだら来る。金も危険も事件もなくても、理由を言わなくても徳重は来るのだろう。ずっとそばに、じゃなくても――、手を伸ばせば欲しい熱が、落ち着ける腕がそこにあればいい。しかし、口にしても届かない願いをどうすれば受け止められるというのだろう。  口をゆすぎ終わると待ち構えていたように、抱き上げられる。抵抗もせず、腕を首筋に回して、息を吸い込む。同じ歯磨き粉、同じシャンプー、同じボディーソープでも、徳重の臭いがする。薪に火を点けた時のような、陽だまりの新木のような、明るいイメージが徳重にはある、というより刷り込みだ、農業を始めてからの彼しかしらないのだから。  柔らかくシーツに投げ出されても回した腕を解かずにいた。支障はないようで、そのままの体制で毛布を掛けて身体を寄せてきた。静まり返った部屋に、雨の音が聞こえてきた。晴耕雨読、悪天候なら農業は休みなのだと思った。 「……明日も、雨だって」  背中を温めるように徳重の手が動く。腕の中で、胸に額をこすりつけるように寄せて、もう一度言う。抱き合ったあと、自分は明け方に出て行ったくせに、目覚めてこの腕や胸がなかったときのことを想った。明日目覚めて、隣に徳重がいなかったら少し寂しい。それだけの理由で……。 「豪雨だって」  それは関東圏のことだ。嘘ではなくても徳重の生活圏とは関係がない。「そうか」とため息交じりに聞こえた。目の前の布をきゅっと握り、徳重の顔が見える位置に頭をずらす。ライトに照らされた穏やかな顔がそこにあった。額に柔らかくキスされる。 「仕方ない。オマエの休暇に付き合ってやろう」 「謹慎だけどな…」  背中に回された手が引き寄せるように肩を抱き、右手が髪を梳くように動く。病室のそれと同様に、労わるように、慈しむように、優しく繰り返される。 「癒してあげられるのは俺だけだろ?」  低い声が静かに耳の中に落ちる。素直にこくりと頷いた。  そばにいてほしい。怪我のせいでも病のせいでもなく、心細さからくるものでもない。  この温もりが好きなのだと、今、ぼんやりと理解した。抱きしめて、思うままに求められる存在でありたいと思った。  頬や髪を何度も撫でられて、トロリと睡魔に襲われる。何も考えずに、この腕の中で眠れそうだ。顎先に額を擦り付けて囁く。 「……より好きな顔は見れたのか?」 「今、これからだよ」 ―終わりー

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