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ピュア 第8話

 「あんたの名前・・・」  アイツが言い終わる前に、抱き留められて動けない腕にかわって、膝をアイツの睾丸めがけてぶち込んだ。  抱きしめてたら、何もできないと思ってんじゃねぇよ!!  ド素人!!  上半身を抱え込み、腕を押さえ込まれていても、オレ位になれば膝で腹や睾丸に攻撃出来るのだ。  お前、バケモノだけど、わかってないな格闘家を。    さすがにアイツはうめき声をあげてしゃがみこんだ。  バケモノだけど、ちゃんと急所は急所だった。  二度と来るか!!  こんなとこ!!    こんなバケモノ二度と関わるか!!  オレは今度こそ本気で走って逃げた。  なんなのアイツ。  腕引っ張っられるまで、気配がしなかった。      追いかけられる足音もしなかった。  闇に紛れて、音もなく忍びよる獣みたいだった。  ゾワリとした恐怖があった。  と同時に、アイツの悪気の無さは奇妙に伝わってきていた。  大型獣の子供が遊ぶつもりで、小動物にじゃれかかり、殺してしまうような無邪気さがあった。  とにかく、オレの本能が叫んでいた。  全力で。  関わるな!!と。  コイツにだけは関わるな、と。  走った。  全身全力で走った。  オレは決して遅くない。  むしろ、速い。  でも、アイツは全力では走るオレに追いついたのだ、かなり遅れて追いかけてきたはずなのに、息さえ乱さず。  オレは思わず振り返った。    遠ざかる校門から、迫ってくる化け物はいなかった。  でも、オレはさらにスピードをあげた。    アイツヤバい。  ヤバすぎる。  どんなホラーだよ、コレ。    オレは化け物に追いかけられるホラー映画の登場人物のように全力で逃げた。  オレの家は、実は学校から自転車で30分位のとこにある。  近いからってので引き受けたのはある。   自転車で来ていた。    でも、自転車はこの際もう捨てるつもりで置いてきた。  二度と行かないぞ、あんな学校。  公開中処刑までされてなんでいける。  行かねーよ!!  その決意だけがある。  アイツとは絶対に関わらない。  絶対だ。  オレはアイツがついて来るという恐怖を拭い切れず、何度も振り返り、何度も道をまがり、何度も人混みを抜け、死ぬ程走って家に帰った。  いくらアイツが尾行の達人だったとしても・・・途中で巻けたはずだ。    オレはマンションの部屋に倒れて、身体を何度もひきつらせた。  胸が痛い。  息が苦しい。  こんなスピードで走り続けたことはめちゃくちゃ鍛えてた学生時代でも記憶にない。  「ヒィ・・・」  引きつる自分の声に、アイツに咥えられた時の声を思い出してオレは真っ赤になった。  全校生徒の前でお姫様抱っこから、抱きしめられた記憶とか。  おそらくトイレでオレがリンチされていたと思っていた奴らは「違うこと」をされている映像に変わったはずだ。  されてない。  されてない。  そこまではされてないから!!  ちょっとはされたけど!!    なんなんだ、アイツ。   なんなんだ、アイツ。    オレの唇に触れたアイツの厚みのある唇の感触とか、オレの性器を舐める大きな舌の感触とか思い出してしまって、また真っ赤になってしまった。  今日という日はオレには存在しなかった。  そういうことにした。  あれは夢だ。  もう、忘れる。  絶対にもうあの学校には行かない。  そう決めた。  決めたならホッとした。  オレは夕方からの予備校の仕事にはそれでも行くことにした。   ・・・オレは仕事はちゃんとするのだ。  190センチもあるゴリラに無理やり色々されない限りは。  予備校の仕事を終えて帰ってくるのは真夜中だ。  オレは夜道をトボトボと歩いていた。  オレは自転車がなくなったから、駅からかなりある距離を歩いて帰らないといけない。  辞める電話もしなきゃいけなかったけど、止めた。  あの学校の奴ら、オレを見殺しにしたのだ。  通報だって出来たのに、誰一人しなかった。  そんなクソなところに筋なんか通して何になる。  イカれてる。  関わっちゃいけない。  ありがたいことに・・・無事だったんだから。  無事?  いや、無事ではないけどな。    だが、まだケツの穴は無事だ。  やたらと高かったバイト料を思った。  週に何回か授業をするだけであれだけの金がもらえるのは、多分学校で見聞きしたことを黙っておけ、との意味だ。  「関わるな」  そう言われたのはアイツを好き放題にしておく以外の意味もあったのだ。    仕事を紹介してくれたおっさんからの着信は携帯にたくさんついていたか、今は無視することにした。  あれだけ好き放題やれるアイツは何なのか、そんなことを考えることも今は止めた。  何も考えないで眠りたい。    今日はもう。  明日の仕事は休ませてもらった。  真っ青な顔色に何も言われなかった。  大体、オレが仕事を休むことは珍しいのだ。  早く帰って寝よう。  もう、風呂もいい。  飯もいらん。  オレは身体を引きずるように歩き、やっとマンションの入り口にたどり着いた。  オートロックを解除している時に、背後から低い声がした。  忘れることなどできない、超低音の声が。  「遅かったな」  オレはゆっくりと振り返った。  幻聴だったら良いなと思った。  なんで気付かなかったのだろう。  なんで気配がないのだろう。  こんなにも大きな男。  こんなにも圧倒的な男。  そびえる男の影にオレは覆われる。    無表情な顔。  光のない目。  現実とは思えないホラー感。  「自転車も持ってきてやったぞ」  だけど、声だけは少年の抑揚であることが余計に現実感を無くしていた。    オレは悲鳴を上げようかと思った。  さすがに学校じゃない、誰か通報してくれるだろう。  でも、アイツの唇が歪み、おそろしい形相、人でも惨殺しながら笑っているような顔をしていたから、止めた。    笑おうとしているのだ。    自分が無害だと示すために。  失敗してるけど。  「どうやってオレの家を?」  そこは気になる。  「あんたの臭いを辿って」  おそろしいことをアイツは言った。  マジか。   マジか?  コイツマジ化け物じゃねーか。  「冗談だ。自転車のシールにマンション名が書いてた」  アイツはオレの自転車の後輪の泥除けに貼られたシールを指差した。  駐輪場に置くために必要な、住人の自転車だと示すシールには確かにマンション名が書いてあった。      あ、なるほど。  これで調べたの。  オレの必死の逃走は最初から意味がなかったのね。  てかコイツ頭いいな。  思いつかなった。    「自転車は受け取った。さっさと帰れ!!」  オレはアイツを睨みつけながら言う。  「話がしたいんだ」  アイツが言った。  オレを見つめる目には何の感情も見えないけれど、その声には必死さがある。  「お願いだ。何もしない。あんたが嫌がることは何もしない・・・話がしたいんだ」  その声は痛みすら感じさせる痛切さがあった。  唇が歪められ、ますます殺人鬼みたいな顔になる。  元がいいだけに、凄みがハンパない。  笑おう、としているわけか。  オレの敵意を削ぎたい訳だ。  「話がしたいんだ」  アイツは繰り返した。    オレは自分でも信じられないことを言っていた。  「話だけだからな、妙な真似したら警察を呼ぶ」    オレはホントどうかしていた。

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