65 / 71

ラブソング ピュア

 下町娘なのだ。    美しい服にも、豪華な食事にも「奥様」と呼ばれることにも慣れない。  望めば何でも手に入るのだが、帰りたくて仕方なかった。  部屋に閉じこもり、本を読むくらいしか出来なかった。  店でお客さん達と大声で喋りあい、父親と母親を手伝い店を切り盛りし、弟を家でどなりながら起こし、なかなかあえない恋人に電話して笑う。    そんな毎日が恋しかった。  自宅の花壇に誰かちゃんと水をやってくれているだろうか。  家の犬は元気だろうか。  老犬は彼女の犬だった。  彼女が拾い、彼女が育てた。    そしてもうすぐ死のうとしている。    老いて弱りかけていた犬は彼女を連れ出そうとした者達に牙を向いたのだ。  暴力をふるわれたのは弟だけだったが、犬はその後何もされていないのだろうか。  弟にはそれ以上何もしてない、と男は言った。     信じる以外ない。  帰りたい。  帰りたい。    男は言った。  帰さないと。  こんなところは嫌。  豪華な牢獄だ。  でも殴られる弟の姿。  出られない。  彼女はまた泣く。  泣きながら眠る。   また痩せた。    ただでさえガリガリなのに。  こんな身体のどこがいいのか。  でも男はこの身体に執着した。  薄い身体の全てに触れ、舐め、キスされた。  恋人とはしたことのなかったことまでされた。  いや、したことがなかったからこそ男はそうしたのだろう。  使ったことのなかった後ろの穴を、丁寧に優しく慣らし、犯した時、男は快楽ではなく、彼女の「初めて」をうばえることこそに夢中になっていたからだ。  恋人としたことがなかったいろんな行為を男はこの身体に教え込んでいく。  それは快楽以上に恐ろしかった。  彼女は眠る。  現実から逃れるために。  誰かが髪を撫でる。  優しく優しく。  誰かが涙を拭う。  優しく優しく。  恋人の無器用な指とは違う気がしたけれど、でも、そこにあるものは同じだった。  「あんま、頑張んなや。お前頑張りすぎや、いつも」  恋人はボソボソ言うだろう。  「あんたもな、ちゃんとご飯食べんねんで?研究大事なんわかるけど」  彼女はそう答えるだろう。    彼女は夢の中、微笑んだ。   息を飲む音が聞こえた。  彼女は撫でられる指に誘われ、また眠る。  「すまない。すまない・・・」  そう囁く低い声は、彼女に届くことはない。  「愛している」  その声にある絶望にも気付くことはない。  「一度抱きさえすれば・・・手放してやれると思ったんだ」  その声の苦悩は届かない。  彼女は夢の中で愛しい人に会う。  二人で笑いながら彼女の老犬を散歩させる。  もうほとんど歩けないから、途中から恋人が犬を抱いて歩くのだ。  夜は恋人の家で夕食を作って二人で喋りながら食べる。  もっとも、話すのは彼女ばかり。  恋人は少し話して笑うだけ。  でも、二人でいれば楽しい。  彼女はその夢に微笑む。  小さく名前を呼ぶ。  その名前に男は身体を強ばらせた。  唇を噛みしめる。  唇から血が滲み、ポタリとそれが彼女の顔に落ちた。  男は彼女が汚れないようにそれを拭った。  彼女は汚れない。  自分にいくら汚されても。  そんなことはわかっていた。    連れて行かれた地下室には入ったことはなかった。  彼女はこの屋敷のどこにでも入ることを許されていたが、そんなとこに行くつもりもなかった。  この館が彼女は大嫌いなのだ。  部屋で閉じこもるのも飽きたので、庭をウロウロしていた。  庭は美しかったが、土に触りたくなった。  自分で自分の料理も作りたかった。  「何でも言え」と言われてはいたが、どうしたものか。  庭に古い離れを見つけた。     鍵がないので入ってみたら、汚れ、荒れてはいても、掃除したら住めそうだった。  館よりよっぽどこちらの方がきにいった。  台所もある。    恋人や家族に二度と会えないとしても。  まだ人生は続くのだ。  前向きに行こう。  彼女はそう思っていた。    あの男がいつか自分に飽きて解放してくれることもあるかもしれない。   大体、何故自分なのか、全くわからないのだから。  男にこの離れを使っていいか頼んでみよう。  そう考えていた時、男が現れ、彼女の手を引き地下室へ連れていったのだ。  「何ですか?」  彼女はいつもとは違い、強く握られていることに怯える。   尋ねればいつも出来るだけ優しく答えようとする男が答えないことに怯える。  鍵のあるドアから続く階段に怯え、また鍵のある扉を男が開けるのに怯え、  開いたドアの光景に怯えた。  そこは普通の部屋ではなかった。  壁は柔らかい白い素材で覆われていた。  おそらく、悲鳴を外部へ漏らさないように。  まるで手術室のように清潔なその部屋は、手術室のような道具はあったがおそらくその意図は全く異なることは彼女にもわかった。  壁に手足を止める枷が埋め込まれていて、そこに二人の男が繋がれていた。  恋人と弟。  ここは拷問部屋なのだ。    「姉ちゃん!!」  弟が叫んだ。  駆け寄ろうとする彼女を男は抱き寄せ行かせない。  「  !!」  彼女の名前を呼んだのは恋人だ。  ずっと会いたかった恋人だ。  「   !!」  思わず彼女はその名前を呼んでしまう。  男の抱きしめる腕が震える。  彼女は知らない。  彼女は男の腕の中で眠りながら、何度もその名前を呼んでいたことを。  「なんで?・・・手ぇ出さへん言うてくれたやないですか」  彼女は泣きながら男を見上げる。  他の男のために泣く彼女がどれほど美しく、どれほど男の胸を引き裂いているのか彼女は知らない。  知ることもない。  「約束を破ったのはこいつらだ。この二人は君を取り返しにきたのを捕まえた」  男の感情のない声が言う。  彼女は息を飲む。  無鉄砲な弟ならしそうだ。  だけど、気が弱くて慎重な恋人までそんな無茶をするとは。  「君は私のモノだ。それを奪うモノは許さないし、君は逃げようとしたらどうなるのか知らなければならない」  男としても予想外だった。  どうやったのかこの二人はこの屋敷内まて侵入してみせたのだ。  ただのミュージシャン崩れと、大学院生がここまでやれるはずがないことをやってみせたのだ。  ひとりのセキュリティーの勘だけが、危ういところで彼らが彼女を奪うのを阻止したのだった。  もちろん奪ったところで、絶対に取り戻したが、許せるはずめなかった。  「お願い。止めて。酷いことはせんといて」   彼女は膝を付き哀願する。  誰がこんなことをしても心を揺るがしたことはないが、連れ去ってから何かを願いもしない、感情を隠したままだった彼女の叫ぶような声に、生まれて初めて心が痛む。  彼女を犯した時でさえ、彼女はこんな声を出さなかったのに。  でも、それがその男のためだと思えば腑が煮えくりかえる。  恋人のためか。  「お願い・・・帰してあげて、もうせぇへんから」  彼女は男の手に顔をこすりつけて哀願する。  胸が痛くて。    でも、腹の底から憎しみがあふれだす。  君は私のものだ。  君は死ぬまで私のものだ。  生きてる限り私のものだ。  だからその先を続けることをためらわなかった。  自分で手を汚すことはない。  男は命じるだけで良かった

ともだちにシェアしよう!