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ラブソング~ピュア
彼女は今、男の腕の中で甘く溶けることを拒まない。
優しく、でも気を失うまで抱かれて、朝まで男の腕の中で眠ることにも逆らわない。
あの後、何度も何度も死のうとした彼女に男は言った。
「死なせない」と。
例え脳だけになろうと生かす、と。
そして、生きている間はお前は私のモノだ、と。
それは本気だった。
そして、彼女も理解して、死ぬことを諦めた。
自分が生きている限り、彼女は私のものだ。
それだけでいい。
彼女に優しく触るのも、彼女の暖かい中に入るのも、彼女を優しくイカせることも好きだけれど、彼女が眠った後が一番男は好きだ。
まるで仲の良い夫婦のように寄り添って眠る時が。
男は、全てなかったかのように髪を撫で、頭や肩にキスをしてその胸の中に彼女の小さな身体を納める。
彼女の体温が好きだ。
この凍りついた自分の芯には届かなくても。
疲れ果て、意識をなくした彼女はそうして寄り添っていてもわからないから、そうできる。
おそらく彼女は夢の中で愛する恋人といるのだろう。
夢の中まで縛れないことを悔しく思いながら男は彼女をだきしめる。
男の夢は寝ている時ではなく、彼女が目覚めるまでのこの時の中にある。
男は眠らない。
起きていたいから。
この胸の中に幸せな妻を抱いている幻想。
哀れな夢。
この夢のために生きている。
その夢がどれほど価値があるかを彼女は知らない。
知ることもない。
「愛している」
男が囁く声も彼女には届かない。
聞かせたりしない。
彼女を苦しめたくはない。
そんな言葉を不快に思うだろうから。
「愛してる」
これは夢。
彼女に愛される夢。
愛する妻といる夢。
男は幸せだ。
夢さえなかった頃に比べたら。
彼女を苦しめ手に入れた夢。
それだけが全て。
彼女は目を覚ます。
離れの部屋だ。
いつの間にか子供と猫が布団の中に潜り込んできている。
寝ている間に男が離れまで運んだのだろう。
身体も清められ新しいパジャマを着せている。
彼女の趣味のなんてことない普通のパジャマだ。
彼女が家で着ていたような。
ファストファッションの店で男が買ってきたとは思えないから、誰かに買わせたのだろうか。
いや、男は週に一度の買い出しに必ずついてくる。
一人で彼女を外出させない。
絶対に男と一緒でなければ。
結果、彼女の行きたい普通のスーパーや、ホームセンターに高級スーツで普段着の彼女といたりする。
彼女がボディガードを嫌がるので、多分どこかにはいるはずだか、男と二人で、たまに子供も一緒に買い物をする。
この前は彼女が買った花壇用の肥料と、ブロックをあの男が台車で車に運びさえしたのだ。
あの男が。
子供と自分の部屋着を買いにファストファッションの店に行ったから、男はそこで買うことを覚えたのかもしれない。
男がファストファッションの店にいることを考えて彼女は笑った。
有り得ない光景に。
そして、笑ったことに悲しむ。
子供と猫が寝返りをうつ。
猫を自分を挟んだ子供の反対側に移す。
子供が触れたら噛みつくから。
猫にキスする。
この子だけが味方。
子供が寒くならないよう布団からはみ出た脚をいれてやる。
可哀想な子。
こんなに良い子なのに。
髪を撫でてやる。
優しくすることを思い出したから。
愛してやりたい。
この世界の誰よりも自分の愛を求めているのはこの子。
愛してあげたい。
この子には何の罪もないのだ。
でも、子供はあまりにも男に似ていた。
それは、忘れられない光景を想い出させる。
くり抜かれた眼窩。
切られた舌。
それでもあの人は愛してると言ったのだ。
この子を。
愛せるはずがない。
愛せない。
可哀想に可哀想に。
彼女は子供のために泣いた。
愛してやりたかった。
でも、あの人の苦痛を忘れることなど出きるはずもない。
あの人の仇さえとれないのだから。
あの時、確かに彼女は恋人とその苦痛をわけあった。
だからこそ、許せるはずがなかった。
許せない。
愛せない。
愛したい。
いい子。
とってもいい子。
でも、優しくしてやることしかできない。
いつか、いつか。
彼女は男を欺き、逃れる。
それにはこの身体を殺さなければならない。
男は絶対に自分を死なせないと言った。
それは事実だろう。
男なら本当に自分を脳だけにしても生かすだろう。
男に悟られず、確実に死ぬのは難しい。
男を欺くのは本当に難しい。
彼女の恋人はとても賢かったが、それでも男の元なら自分を逃がせなかった。
でも彼女は逃げる。
ここであの男と共に朽ちてなどやるものか。
自分が死ねば、多少の痛みはあの男に与えられるだろうし。
これだけ執着はしているのだ。
その時この子をどうしよう。
この子を連れて行ってやるべきなのか。
少しでも愛していたならば・・・この子を連れて行くことに迷いはなかっただろうに。
この子の生きる先は地獄だ。
この子も沢山殺すだろう。
それはこの優しい子には苦痛だろう。
でも連れていかないだろう。
本当は連れて行きたくないから。
あの人の元へ、この子供と一緒に行きたくないから。
「ごめんなぁ・・・赦してなぁ・・・」
彼女は泣いた。
あの人と自分の子供だったなら。
この子を誰よりも愛しただろうに。
優しく髪をなでる。
優しくする。
優しくする。
それだけしか出来ない
彼女は子供を抱きしめた。
まだ眠ろう。
子供が起きてご飯をねだるまで。
今日は二人で朝ご飯を作ろう。
子供を愛してはいない。
でも、嫌いではないのだ。
我が子に向かって言うにはあまりにも残酷な言葉だが。
彼女は子供を抱きしめて眠る。
子供は幸せそうに見える。
彼女は男を憎んでいる。
心の底から。
恐れている。
いつか男を出し抜くことを支えに生きている。
でも、人間の心は複雑だから。
彼女にも気付かない心の奥底に。
多分このイメージを彼女は心の底に沈めて、浮かびあがらせることもなく。
それを彼女は悪夢と認識して夢の中で見るのかもしれない。
もしも、男が恋人を殺さなかったなら。
その考えを、考えたことさえ、彼女は忘れ去った。
でもそれは確かに彼女の心に浮かんだイメージだった。
それは有り得たかもしれない現在だったことさえ彼女は認めないだろう。
思わず男に向かって笑う彼女。
それを微笑みながら見る男。
二人の間で笑う子供。
例え瞬間であっても
憎み、苦しみ、悩み、それでも・・・二人の間には何かが生まれたかもしれないのだ。
許せなくても。
でも、もう彼女にあるのは純粋な憎しみだけだ。
そのイメージは沈めたから。
そのイメージは深く沈み、二度あらわれることはない。
でも確かに存在したのだ。
奥深く彼女の奥深くに沈められて。
男にとってどんな女の愛の告白よりも価値のあるそのイメージは、彼女の奥にしまい込まれ、浮かびあがることはない。
あの男を憎まないですめば。
そう思ったことを彼女は思い出すことはない。
彼女は夢をみる。
夢の中でしか会えない優しい人の夢を見る。
大抵は。
でも。
でも。
起きて思い出すこともない夢の一つ。
見たの内容は忘れても悪夢のようだったと思う夢の一つ。
夫婦と子供が笑い合う。
そんな夢。
そんな夢を見た後は、彼女は見た夢のことを忘れて悪夢であったかのように震えて、子供を抱きしめて囁く。
子供には聴かせないように。
この子に愛される人間は不幸になる。
この子の罪ではないのだけど。
でも。
「あんたと歩こうって人が現れたらええなぁ・・・」
これは祈ってはいけない祈りだ。
この子と歩く人間は不幸になる。
この子が背負うものはどす黒い。
この子はとてもいい子だけど。
でもこの子はあの男の代わりにあそこへ立つために生かされている。
この子を連れて行くべきなのだろう。
でも、連れて行きたくない。
愛していないから。
でも。
でも。
「約束してな。愛してくれる人以外は側においたらあかん」
寝ている子供に囁く。
これは呪いだ。
眠る罪のない子にかける呪い。
そんな呪いをかける位なら、この子をつれていくべきなのだ。
この子の生きてる世界を知って誰がこの子を愛するものか。
少なくとも、この子が好きになるような人間では無理だ。
「あんたを愛してくれるはる人が現れたらええな」
でも心から願う。
どうか。
どうか。
でも不幸な子供が、母親にすら愛されない哀れな子供が誰かに愛されることがあるのだろうか。
この子のいく先は暗闇なのだ。
子供を抱きしめた。
哀れでならない。
「あんたを置いていく私を許してなぁ?」
この子は赦す。
赦して、彼女を愛し続けるだろう。
「いい子。本当にいい子」
この言葉は本当の気持ち。
「お母さん・・・」
子供はいつから起きていたのか、小さな声を上げて母親を見つめる。
眠ったふりをしたままでいれば抱きしめてもらえると思っていたのだろう。
でも大好きな母親が側にいてくれるのに我慢しきれなかったのだ。
「ん?」
彼女は優しく問い返す。
「何か歌って?」
子供の目には光がなくて、その目にゾっとしながらも彼女は優しく聞き返す。
「何がいいん?」
彼女の言葉に子供は歌う。
彼女が良く歌ってる切ないラブソングだ。
誰を想って歌っているのかは子供は知らない。
彼女が低く歌い始めると子供は嬉しそうに彼女に抱きついた。
彼女は優しく子供の背中を撫でながら歌う。
いつかここを出て行くこと。
その先に恋人がいてくれることを願って。
もう一度。
もう一度だけ。
あなたに会いたい。
失われた日常を懐かしみながら歌い続ける。
そして子供は、彼女の腕の中でねむる。
出口のない場所で彼女は歌う。
それでも彼女は逃げてみせるのだ。
彼女の歌は美しかった。
END
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