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出会い3
「今日はその奥の教室はいいから、他からしてくれる?」
そう言われた。
年に一度床のワックス掛けをする専門学校だった。
夜間に古いワックスをはがし、新しいワックスをかけていく作業をしていくのだが、大体3日位で終わらせる。
その途中、夜遅くまで使う教室もあり、そういったことを頼まれることは良くあった。
今日は何かイベントの練習があるらしい。
この時間なのに学生が数人残っているのだとか。
彼は頷いた。
奥の練習室は防音のためカーペットがしいてあり、楽器があるのでしなくても良いとのことだった。
ありがたいことに、ここの担当者はもう彼に慣れてくれているので、受け答えなくてもいい。
いつものように作業していく。
薬品をまき、ワックスを溶かし、機械で磨き、とりきれないところは手でとる。
そして新しいワックスをかけ、巨大な扇風機で乾かす。
通常二人でする仕事を一人でこなしていく。
乾かしている間に次の部屋へと。
要領よく動き、的確に作業していく。
彼の仕事振りには定評があり、「あの子をよこせ」と指名されることも多い。
ワックスをかける作業、モッブを丁寧に動かしながら、彼は歌い始めた。
誰もいない夜、歌いながらする仕事は楽しかった。
母が好きだった、古いラブソングを歌った。
悲しく切ない、行き場のないようなラブソング。
歌は好きだっだが、幸せにも成れないようなこんな恋の歌詞を、何故母や他の人達が好むのかがわからなかった。
恋自体、わからなかった。
母を愛していた。
恋はそれとどう違うというのだろうか。
自分には関係ないことだな、と思った。
働き、歌う。
オレにはこれで十分だ。
彼はそう思った。
職場の人達とももう5年にもなれば、それなりに仲良くなるし、怖くもなくなる。
こちらから話はしないが話しかけてくるし、それが嫌じゃなくなっている。
作業は一人だけれど、現場へのピックアップはしてもらっているし、準備などでも顔を合わす。
それがもう嫌じゃない。
それで十分だ。
理解は出来ないけれど、好きなラブソングを彼は歌った。
透明な歌が浮かびどこかへ運ばれていく。
彼の歌は夜の建物に響いた。
バン
教室のドアが勢い良く開かれ、男が息をきらしながら立っていた。
彼はびっくりして歌うのをやめた。
男は彼を見つめた。
「歌っていたのは君か?」
男は言った。
まだ若い男だった。
この専門学校の学生なのか。
彼は怯えた。
男がずかずかと部屋にはいってきて、近寄ってきたから。
「・・・君なのか」
両肩を掴まれ揺さぶられた。
握っていたモップが飛んでいく。
掴まれた手を彼は振り払った。
怖かった。
その手から逃げようと男に背をむけた。
「待って」
腕をつかんで引き寄せられ、男が無遠慮に顔を覗き込もうと、彼の覆いかぶさっていた前髪をかきあげた。
怯えた2つの美しいアーモンド形の目、繊細な鼻筋、柔らかな小さな唇。
無粋な作業服とは不似合いな顔がそこに隠されていた。
「・・・君は」
男は息を飲んだ。
彼はまた男の手を振り払い、逃げようとする。
「待って!」
抱きしめられた。
ただ、逃がしたくないだけの抱擁だったが、彼は抱きしめられた感触にビクンと震えた。
「へ?」
男の目に戸惑いが生まれた。
そして、強く抱きしめられた腕を、必死で振り払おうと身悶えする彼の姿に一瞬微笑んだ。
「・・・可愛い」
小さくつぶやいたが、必死な彼には聞こえなかった。
「ごめん、逃げなないと約束してくれたら離すから・・・お願いだから、逃げないで」
男はもがく彼に必死で言った。
その言葉は彼に届き、彼は大人しくなった。
「手を離すから逃げないで」
男は少し残念そうに腕を雛した 。
「こちらを向いて。触らないから」
男の言葉に彼はおずおずと男を見上げた。
髪は男に撫でつけられたままで、美しい輪郭の目が長い睫に彩られ、男を見上げるのを男は息を呑むような思いで見ていた。
「・・・君はとても、綺麗だ」
その言葉に彼は前髪があがっていることに気づき、前髪を下ろし、その隙間から男を見る。
その様子に男はふわりと笑った。
「そう・・・見られたくないんだね。こんなに綺麗なのに」
男は彼の顔に指を伸ばしかけ、やめた。
「君が歌っていたのかな?」
男の質問に彼は答えて良いものなのか悩む。
でも、ゆっくり頷く。
「そう」
男も頷いた。
そしてやっと彼が仕事中だったことに気付く。
「邪魔したね。仕事終わったら、話がしたいな。突き当たりの練習室にいるから、終わったら寄って。・・・ずっと待っているから」
男は微笑んで言った。
そして、来た時と同じ位不意に離れていった。
彼は、床に・・・へたりこんだのだった。
邪魔が入ったけれど、なんとか予定の範囲の仕事は終えた。
後2日で終わらせる。
男が待つ部屋へなど行く気はなかった。
でも、そんな時に限って電話があった。
「聞こえてるか」
スマホの向こうは同僚の声。
トントン
彼は指でスマホを叩く。
聞こえているのサインだ。
「こちらの現場で色々あってな、一時間位迎えに行くのが遅れる」
同僚の言葉に彼はスマホを叩く。
トントン
了承したと、叩く。
「すまない。ラーメン奢るよ」
同僚が言った。
トントン。
もらう、と叩く。
彼は少し笑う。
一言も彼が口を利かなくても、気にしないこの同僚が彼は嫌いではない。
「・・・じゃあ後で」
同僚は通話を切った。
さて。
待つか。
彼は道具をまとめた台車を出口付近に置きながら、思った。
ただ、その時ふと思ったのだ。
「待ってるから」
あの男の言葉を。
本当に待っているのだろうか。
一応断る方が良くないか。
いや、もういくらなんでもいないだろう。
もう朝なのだ。
ただ、教室の様子を伺い、いないことに安心して帰ろう、そう思っただけだった。
柔らかなピアノの音がした。
彼はその音に惹かれた。
音が光っていた。
発光し、流れていく。
捕まえようとすると、その手からこぼれていく。 色のない、光だけの音。
音を追って歩く。
だから、何も考えずそのドアを開けた。
そこで男がピアノを弾いていた。
光がピアノから溢れ出していく。
光は漂い、儚く溶けていく。
指をのばしたら触れられるのではないかと、彼は手を広げる。
彼には音が見える。
吸い込まれるような、どこか寂しいピアノの音と、あふれる光に恍惚となる。
男がピアノを弾き終えるまで、彼はうっとりとその音に身を任せていた。
ピアノか終わった時、彼ははっとあたりを見回した。
彼は男の座るピアノの前に自分が立っていることに気づき、慌てた。
狭いピアノ一つあるだけの小さな練習室は、逃げ場などなかった。
ドアをふさぐように男は立っていた。
面白そうな顔をして。
「・・・僕のピアノは好き?」
尋ねられる。
彼は部屋の外に出たくて仕方ない。
怯えたように逃げる場所を探す。
「・・・怖がらないで」
男は立ったままピアノを弾いた。
彼がさっき歌った古いラブソングのメロディだ。
また音が発光する。
この男のピアノの音は光る。
色のある音は良く見る。
でもこの男の音は色はなくて・・・柔らかに発光する。
またピアノが弾かれる。
彼は光と音に酔う。
この音は好き。
「何か弾いてあげようか」
男が言った。
彼は無邪気に頷いた。
男はにこりと笑った。
音でなら彼とコミュニケーションできると分かったからだ。
男は 優しい曲を弾いた。
彼は大人しく床にすわり、音を見、聞いた。
柔らかな光、柔らかな音。
それは優しく彼を包み込んだ。
彼に触れたならはじけてしまう光は微睡むような柔らかさで。
この男のピアノは好きだ。
そう、彼は思った。
男はただピアノを弾いた。
彼はそれを聴いていた。
音を弾ける光として認識し、夢みるようにそれを感じ、その音の奥を見つめる。
柔らかさの奥に悲しみがあった。
消えることのない悲しみが。
癒えていない痛みがあった。
それは彼の痛みにも響いた。
ただ一人の家族、母を失った悲しみはまだ癒えていない。
この人も誰かを失ったのだろうか・・・。
綺麗な光の奥に悲しみを隠して、音はゆっくりと流れて行った。
一言も話をしていないのに、男に不思議な親近感を彼は持ち始めていた。
スマホポケットのスマホのバイブが震えるまで、ただその音の中に彼は身を任せていた。
画面には同僚からの電話であることが示されていた。
ピアノが止んだ。
光が消えた。
「・・・行くのかな」
男が尋ねた。
彼は頷く。
「今日の夜も来る?」
男がまた尋ねた。
彼は頷く。
「じゃあ、夜に」
男は言った。
彼は頷いていいものかわからなかっけれど、頷いた。
男の横を抜けてドアから出ようとする時、男の指が一瞬髪に触れた。
何故か振り払おうとは思わなかった。
それが、男と彼の最初の出会いだった。
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