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出会い4
次の日も、男のピアノに惹かれて、仕事の後その部屋で過ごした。
音と光に包まれ、うっとりと目を閉じる。
目を閉じても光が見える。
男は微かに微笑みながらピアノを弾く。
男は彼に触れていた。
音と言う形で。
音は唇をなぞる。
音は髪を撫でる。
音は、胸の柔らかな場所を優しく刺していった。
甘く痛む胸に、彼は吐息をもらした。
曲が終わり、男が立ち上がり彼の隣にすわり、その髪を撫で、顔を露わにされても、彼はその手を払わなかった。
もうすでに音で触られていたからだろうか。
ただ、隣に座られるだけで、胸の鼓動があがった。
これの意味はわからなかった。
スマホのバイブが鳴る。
行かなければ。
「君のために2日弾いた。・・・明日は君が歌ってくれる?」
囁かれた。
明日は作業が最後の日だった。
彼は頷いた。
ピアノは素敵だった。
オレの歌がお返しになるのなら、歌おう。
そう思った。
ほんの少しだけ、頬を撫でられた。
身体を震わせたけれど、その手を振り払おうとは思わなかった。
男は優しく笑った。
自分より少し年上だろう男を、彼ははじめてまともに見つめた。
優しげな顔。
背の高い男。
男の外見についての感想は、彼にはそれが精一杯だ。
でもこの人は傷ついている。
ピアノからそれを聞いたから。
その瞳の奥にそれを探す。
見つけてどうなるわけでもないけれど、歌でなら
少し位は助けになれるかもしれないから。
男は赤くなった。
「そんなに無防備に見つめたらダメだよ。悪いことしたくなるから」
男は頬から手を離した。
名残惜しいように見えたのは気のせいだろうか。
それに、悪いことって?
彼には分からない。
「また、明日」
男は言った。
彼は頷いたのだった。
「明日は一番最後に迎えに来てもらえないかな」
彼はLINEに打ち込む。
目の前で同僚はそれを読む。
後片付けの最中だ。
積んだ道具や薬剤を倉庫に戻し、汚れた雑巾代わりのタオルを専用の洗濯機にいれる。
同僚との会話はこうやってしている。
「良いけど、別に。でもどうして?」
質問される。
この同僚があちこちの現場からピックアップして連れて帰ることになっている。
「知り合いになった人と仕事の後で話がしたくて。時間が欲しい」
簡単に説明する。
本当は話などしないのだ。
歌うだけで。
母がいなくなって以来、誰とも声を使って話はしていないのだが。
まあ、こうやってLINE等を使えば話せないこともない。
「知り合う・・・話・・・?」
同僚は目を丸くする。
どちらも彼には不似合いな言葉だからだ。
こうやってLINEで話が出来ないこともないが、基本知らない人と彼が話すことはないことを知っているため、同僚は驚く。
でも、彼が何度も頷いたので信じるしかないと思ったようだ。
「女の子か?・・・そっか、学校に残ってた女の子がいたのか」
違うと首をブンブン振ったが見てさえくれない。
「まあ・・・確かにお前、顔だけはいいもんな。あるかもしれん。うん。お前からは絶対にないから、向こうからだな・・・迫られたか」
勝手に納得される。
彼とはほぼ同時期に入社したので、長い付き合いのため、顔を見られたこともある。
勝手に納得された。
「・・・いいぜ。こんなチャンス逃したらお前永遠に童貞だもんな・・・一番最後に迎えに行くよ。しかし、学校ですんのか・・・憧れのシュチュエーションだな。わかるぜ、オレもお前も学生生活には縁がなかったもんな」
同僚は言った。
同僚はハードにグレていて学校から放り出され、彼はイジメで学校に行けなくなった。
確かに縁はない。
「学校でか・・・」
何か違う風に考えられているようだ。
そう、二人とも専門学校や大学に行っていてもいい年齢なのだ。
彼以上に同僚には学生生活に憧れがあり、何かしらそこでの女の子とのイベントに妄想があるらしい。
ただ、彼はあの人のために歌うだけなのに。
「荷物出口の外に置いておけ。・・・もし終わらなかったら、始発で帰って来いよ。来なかったら道具回収してあとはオレが全部しておいてやるから」
同僚は言った。
勝手に色々納得しながら。
「・・・お前がねぇ」
彼を置いて去っていく。
違うともアピールもさせてもらえなかった。
でも、女の子と学校で何するんだろう。
彼には良く分からなかった。
仕事を終えた。
いつも以上に丁寧に早く終えた気がする。
荷物を出口付近に置いた。
同僚が回収してくれるだろう。
今日が最後だと思ったら、何故か少しでも長く男といたかった。
自分でも何でこんなことと思ったけれど、トイレで作業服から普通の服に着替えた。
母におしえられた通りの、ちゃんとアイロンのあたったシャツとズボン。
母の基準の「きちんとしてる」位しか服についてはわからない。
でも、作業服よりは、きっと、いい。
作業が終わったらいつもする、手や顔を洗う行為さえ普段より丁寧にした気がする。
歌うだけなのに。
また、髪に頬に触られるだろうか。
最初の時は驚いて、怖かったけれど、嫌ではなくなっていた。
多分、あの人のピアノの音がもうオレに触れたから。
最後なのだ。
もう会わないのだ。
だったら、何故か、これからの時間を大切にしたい、そう彼は思った。
顔を出した方が「ちゃんとしている」ことは分かっていた。
髪を撫でつけてみた。
怯えた目の自分が鏡に映る。
その怯えた目がみっともなさすぎるように思えた。
やはり髪で顔を隠した。
マスクとかがあれば良かったのに。
身支度というほどの身支度でもないけれど、身支度はできた。
でも、中々動けなかった。
何故なのかわからない。
ただ、ドキドキしていて。
ふわふわしていて。
怖くてたまらなかった。
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