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出会い5
練習室のドアの前で立ち尽くしていた。
せっかく早く仕事を終えたのに結局、昨日と同じ時間になっていた。
ドアがあけれないのだ。
そんなに怖ければ去ればいいのに、それも出来ない。
防音のドアの向こうから、ピアノの音が聞こえて。
その光が手放してくれないのだ。
何にも知らない人なのに、そのピアノしか知らないのに。
でも、オレのためにピアノを弾いてくれた。
それが大切に弾かれたのだということは、聞けばわかった。
あの人は大切に、捧げるように、オレだけのためにピアノを弾いてくれた。
あれはオレだけのための光だった。
素敵だった。
だから、だから、オレも返さないといけない。
それだけの、それだけのこと。
なのに、彼はドアに手を伸ばすことさえ出来ないのだ。
男の弾くピアノの音が変わった。
待ち焦がれるような、切ない音に。
光に影がさす。
影絵のような音はそれはそれで美しかったけれど、悲しくなった。
オレを待ってるの?
オレが来ないと悲しいの?
彼は思った。
まさか、と思ったけれど、音楽はいつだって嘘を彼に付かなかった。
だから、彼は自分でドアを開けた。
生まれて初めて、他人に会うためにドアを開けた。
ピアノは止んで。
男はゆっくりと振り返った。
そしてとても優しく微笑んだ。
手招きされて、おずおずと近寄った。
ピアノの演奏用の男が座る椅子の隣に、椅子が置いてあり、座るように言われた。
逃げたくなった。
着替えなんかしたところでみっともないことには代わりないのに、むしろ、みっともない自分がなんとかしようとしたことが、余計にみっともないように思われるのではないか、など色々考えてしまって。
「逃げないで」
そっと腕を掴まれた。
壊れものに触れるように触れられたから、少し驚きはしたけれど、固まりはしたけれど、その手をふりはらわなかった。
強張った身体に苦笑し、あの人はゆっくりとその手を離した。
でも、顔が近付けられた。
前髪の隙間から、吐息がかかるほど近づく顔を呆然と見ていた。
「歌って。僕のために」
男は言った。
ドキン
胸が痛む意味さえ彼にはわからない。
後ずさりはした。
でも逃げなかった。
震えながら、呼吸を整える。
歌なら歌える。
歌なら、歌えるんだ。
歌おう。
あんたのために。
あんただけのために。
彼は男を見つめた。
髪をわずかにかき上げる。
現れた美しい目に男は射止められる。
でも、その目は彼の怯えたり、戸惑ったりする感情が消えていた。
そこには、ただ、男が映っていた。
まるで男を取り込むように。
歌が始まった。
歌詞などない歌が。
男は悟った。
男は彼の歌声に驚いた。
古いラブソングを歌うその声に。
でも、彼の真価はそんなものではなかったのだ。
この歌い手の歌はそんなものではなかったのだ。
それは才能なんていう言葉であらわせる生ぬるいものではなかったのだ。
歌は浮かび上がらせた。
それなりに華やかな毎日。
贅沢な暮らし。
綺麗で華やかな女や男。
金色のシャンパンの泡みたいな日々。
軽やかで、華やかな香りの。
はじけて消えてしまうような。
どこか儚い華やかさを、彼は歌う。
そして、音をつなぎ合わせ、曲を作る男を歌う。
建築物のように男は音をつなぎ合わせる。
男にとって音楽はバランスであり建築物だ。
丁寧につなぎ合わせ、音をつなぎ、男は曲をつくる。
それは楽しい。
何よりも楽しい。
この世界に生きている実感。
その作り上げるモノは男そのもので、名前がきざまれ誇り高く完成される。
透明な光のような建築物。
男は美しいと思う。
誇らしさとともに。
それを彼は歌う。
歌が変わった。
生きながら、殺される歌だ。
彼が作った建築物のような音楽は奪われる。
密やかに刻まれた男の名前は削り取られ、違う名前が焼き印される。
それは男が焼かれる音でもあった。
「お前の名前では意味がないんだよ」
奪う人が囁く。
「それは僕のモノだ」
男は呟く。
「お前は俺のものだ。だから・・・お前のモノは
俺 のモノだ」
奪う人が言う。
「お前は名前などなくても生きていけるだろう?」
奪う人は囁く。
ずるり、黒い影が男を覆う。
男の肌を男の名前ではない名前が焼き付けられる。
「お前は俺であればいい」
奪う人は囁く。
男は生きながら名前を奪われ沈んでいく。
華やかなシャンパンの泡。
軽やかに人々が集まり騒ぐ。
綺麗な女、綺麗な男。
その金色の液体の中で、男は生きながら殺されていく。
歌は終わった。
男は目を見開き彼を見つめていた。
「・・・君は誰だ。何故、知っている」
かすれた声。
彼も驚く。
こんなものを歌うつもりはなかった。
でも、歌いだすといつも何かを手繰り寄せてしまうのだ。
でも、今回手繰り寄せしまったものは、男には耐え難いものだったのではないか。
そう思って。
「・・・アレは歌、なのか」
男は呆然とつぶやいた。
「君は一体・・・」
男は肌を焼かれる痛みのリアルさに震えながら呟いた。
いや、焼かれている、
いつだって焼かれ続けている。
その痛みから、目を逸らしているだけで。
彼は痛むような様子の男に、慌てた。
手を伸ばそうとし、怯え、困り、そして、気がついたように歌った。
末期癌で苦しむ母のために歌った、子守歌を。
ふわり、優しい風が吹いた。
男を包むような風。
優しい歌は男を癒やすためだけに響いた。
触れていないのに彼の指が触れた。
癒やすように。
音で彼は男に触れた。
「・・・君は」
男は呟いた。
やはり。やはり。
「・・・君が」
男は立ち上がり彼を背後から抱きしめた。
歌声を初めて聞いた時から思っていた。
彼が欲しいと。
こうするつもりだった。
今日ここではなかったけれど。
考えていた段取りとは違った。
違ったけれど。
もう止まる気はなかった。
抱きたかった。
ここで、彼を抱いてしまいたかった。
抱いてから、全てを始めたい。
男は強く彼を抱きしめた。
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