8 / 75
恋人1
彼が目を開けたら、そこは知らない部屋だった。
驚いて起き上がろうとする。
身体が痛む。
大きすぎるパジャマを着せられていた。
大きなベッド、広い部屋。
母と住んでいた狭い団地に住み続ける彼には
なじまない部屋だ。
首筋の痛み。
噛まれた後だけが、何があったか、そして今もこれが現実であることを教えてくれていた。
ドロドロに汚されていたはずの身体が綺麗になっている。
「部屋・・・」
あの練習室、汚れてしまったのでは・・・オレので・・・。
真っ赤になる。
あの人の出したモノは、彼の中に注ぎ込まれたから、汚したモノは彼のモノだと考えてしまって、耐えられなくなったのだ。
あんなに出したことはなかった。
恥ずかしい。
仕事柄、汚した部屋が気になった。
酷い記憶に頭を抱える。
嫌だって言ったのに。
怖いって言ったのに。
許してくれなかった。
乳首だけでイかされた記憶に怯える。
自分の身体はこんな身体じゃなかったのに。
身体を作り替えられた。
無理やり。
あの人がそうした。
彼はヨロヨロと起き上がった。
フワリ、光が見えた。
ピアノの音だ。
音を光としても認識しながら、彼はその光が生まれる場所へとふらふらと歩き出した。
優しい音、色のない光。
音を辿りながら歩く。
いくつも部屋のある大きなマンションなのだとわかった。
そして、光が零れるドアを開ければ。
あの人がそこでピアノをひいていた。
この人のピアノが好き。
彼はうっとりと聞きほれる。
透明な光。
ピアノのは弾く人によって音の色が違う。
でもこの人の音は、色がなくて・・・透明な光で出来ているんだ。
弾けて、震えて、響く。
光は彼に触れて、弾ける。
好き。
そう思う。
好き。
こんなにも透明な。
好き。
うっとりと身を任せる。
音が身体を抜けていく。
甘く響く。
吐息のように。
ピアノが終わった。
「それくらい抱かれる時に身を任せてくれれば、泣かさなくてすむんだけど」
男が笑いながら言った。
彼はされたことを思い出して身体を固くした。
「おいで」
男は両手を広げたけれど、どういう意味か分からなかった。
男は苦笑する。
ピアノの椅子から立ち上がり、近づいてくる。
彼は後ずさる。
この人は、止めてくれなかった。
怖かったのに。
痛かったのに。
「・・・怒ってる?」
男が困ったように言う。
当たり前だ。
彼は男を睨みつけた。
くすっ、男は笑った。
「そんな可愛い顔で睨まれてもね」
はっとした。
前髪を慌てて顔に下ろす。
その隙に抱きしめられた。
「離して・・・」
また怖いことをされるのかと、彼は怯える。
押し返そうとするけれど、離してもらえない。
「・・・離さないよ。絶対。君は僕の恋人だから」
囁かれる。
彼は思わず抵抗を忘れた。
恋人って。
「そう、恋人。彼氏、特別な人。何でもいい。僕には君が特別だ」
頬を擦り付けられる。
彼は途方にくれる。
「君だけが特別だ」
男に囁かれて困ってしまった。
恋すら知らないのに抱かれて、今、愛を囁かれている。
彼の理解の限界はこしていた。
家に帰って、慣れた場所で落ち着きたかった。
「もう、無理はさせない・・・と思う。頑張るよ。精一杯。しばらくはキスくらいにしておくし、・・・多分。だから機嫌直して、僕の恋人」
微笑まれても、訳がわからない。
呆然と腕の中で立ち尽くしている彼の背を男は優しく撫でた。
「可愛い」
頬や額や唇に甘く唇が落とされる。
「もう少しピアノ聞く?そして、朝ご飯・・・昼ご飯だね、食べよう」
そう、囁かれたら・・・男のピアノが好きだから・・・。
彼は頷いてしまった。
男のピアノの横に椅子が置かれ、彼は男のピアノに聞き惚れた。
何故かお昼をご馳走になっていた。
男が作ったパスタ。
綺麗に出来ているけれど、緊張しすぎて味がしない。
時計を見た。
15時過ぎだ。
ご飯を食べたら帰ろう。
19時から仕事だ。
節々が痛む。
辛い。
でも、仕事を休むつもりはなかった。
母親は「まずキチンと仕事に行くことが仕事の基本」と言う人で。
彼もそれを受け継いでいた。
でも、練習室が気になった。
汚してしまっている・・・。
「練習室・・・」
彼は男に言った。
男とは言葉で会話していることに自分でも驚く。
彼は他人の前では声が出なくなるのだ
「ん?どうしたの」
男は彼のグラスにジュースを注ぎながら笑う。
自分のグラスにもジュースを入れる。
「君を車で送るからワインは無しね」
男は笑う。
「練習室、汚した」
彼は小さな声で言う。
男は言いたいことがわかったらしい。
「大丈夫、今日僕が掃除しておくから。大体は片付けたんだけとね。今日は使用禁止にしてる」
男は笑った。
「沢山出したからね~」
男の言葉に彼は真っ赤になる。
「・・・本当に可愛い」
男は愛しげに手を伸ばし、彼の髪を撫でる。
練習室を使用禁止にしたりするのを学生ができるのだろうか。
それに、このマンションも学生の一人暮らしにしてはあまりにも立派すぎる。
それほど彼とは、年齢が離れているようには見えなかった。
「あなたは、何?」
彼は聞く。
男は考えこんだ。
「肩書き的にはあの専門学校の経営をしているんだけど・・・まぁ、ざっくり音楽に関する仕事をしている」
男は言った。
「ピアニスト?」
彼は聞く。
素敵なピアノだ。
男のピアノは。
男は微笑んだ。
少し難しい笑顔だった。
「君は僕のピアノが好きだね・・・。でも、それほど評価はされなかったんだよ」
評価?
彼には分からない。
誰が決めるのだろうか。
素敵か素敵じゃないかなんて。
「今は曲を作ってる」
男は簡単に説明した。
彼にはそれで十分だった。
ともだちにシェアしよう!