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不安1

 最近はビルの窓拭きが多い。  特に高層ではないビルの、だ。  命綱をつけてロープで壁を降りながら窓を拭くのは誰でも出来ることではないので、元気な若者、彼と同僚に必然的に仕事がまわってくる。  夜遅く帰ってくる男と、またすれ違う時間が多くなって、彼は少し切ない。   正直、抱かれていない身体も切ない。  こっそり自分でしているのはちょっと悲しい。  指を入れてそこを探り当てながら、前も擦る、恋人の名前を呼びながら。  そして空しく射精する。  切ない。  でも、疲れきった恋人を休ませてあげたい気持ちの方が強いし、少しでもいれる時の嬉しそうな男の顔に救われている。  子守歌を歌う。  出来ることなんて、何もないから。  出来ることは・・・少しでも、精一杯。  「キスして抱きしめて・・・」  甘えたように言われるのが嬉しかった。  抱え込むように、数時間、数分、一緒に眠るだけでも良かった。  オレでなければ、もっと役に立ててたのかな、と思ってしまうのを考えないようにする。  出来ることをするだけだ。  元気がなくても、きっちりと仕事をする彼を同僚は心配そうに見ていた。  現場が終わり、車で会社に戻る途中、同僚が言った。  「・・・歌も歌ってないし、お前大丈夫?」  彼は真っ赤になる。  仕事中聞かれてないと思ってたら、聞いている人がいた。  「え、オレお前の歌好きよ?何年聞いてると思ってんの」  同僚は笑った。  彼は頭を抱えた。  まさか、聞かれてたとは。     同じ現場だし、同じ作業はしてなくても・・・聞こえるよな、考えれば。  何年も同僚は風に乗って届く歌声に耳を傾けていたのだ。  「大丈夫なのか?」  同僚の言葉に頷く。  大丈夫。  ステージが無事に終われば、またゆっくりする時間もあるだろう。  男が一生懸命作っているモノなのだ。  頑張って欲しい。   それの力になれないのが、ツライだけなのだ。   「ならいいけど」  同僚は疑わしげに言った。  会社に戻り、倉庫に道具を戻し、家に帰るためにバイク置き場に行った。  男が帰ってくるなら真夜中だろう。  ため息をつく。    そんな彼に声をかけた人がいた。    「・・・  君だね」  彼の名字を呼ぶ。  彼は固まった。  それは、あの男だった。  背の高い彼の恋人よりも、さらに背の高い男。  音楽家と言うよりは、どちらかと言えば暴力的な世界の人々の匂いがした。  これ見よがしではないけれど、その手脚には振るえる暴力があるのは明確だった。  多分、そういう面もあるだろう、彼はそう踏だ。    彼は人の闇には敏感だ。  彼には人々の美醜は分からない。   でも、その男の、熱量のある目は人によっては魅力的にも、彼が今感じているように恐ろしいとも思うはずだった。  彼は逃げなかった。  怖かったけれど、逃げなかった。  いつもうつむきがちな顔を、あげてその男を見た。  顔が半ばほど露わになり、美しいアーモンド形の目が、真っ直ぐに男を見つめていた。  その男が息を呑むのがわかった。  「・・・なるほど、綺麗な子だな」  その男はつぶやいた。  一歩ずつ近寄ってくる。  彼は逃げない。    「・・・おい、ソイツに何か用か?」  声がした。  同僚だった。  笑っていた。  面白いことがあるかのように。  恐れることなく、あの男に近寄る。  バイク置き場に彼と男を見かけて、きてくれたようだ。  彼と同じでそれ程背が高くもない、同僚だけれど、全くあの男を恐れることはない。  じろじろと男を不作法に見上げた。    彼はため息をつく。  彼は同僚を知っている。  イジメで学校にいけなくなった彼とは違い、この同僚はハードにグレていて学校を放り出されたクチだった。  今でこそ、黒髪短髪の気のいいお兄さんだが、当時は金髪に染めた髪、両腕に入ったタトゥー、荒んだ目をしていた。  相手を選ばす、暴れまわっていたクチだ。  今ではすっかり更正して、働きながら格闘技のジムに通って、選手として試合をしている。   暴力の匂いがする男に怯えることなどない。  むしろ暴力は彼の言語だ。    男も同僚からは何かを感じとったらしく、眉を潜めたが、別に怯えることもなかった。  同僚は明らかな殺気を放っているのに。  「どうするよ?なんとかしてほしければ、頷けよ」  同僚は彼に聞いた。  彼が頷きさえすれば、男をつまみ出すなりなんなりしてくれるだろう。    でも、彼は首を振った。    「・・・いいのか?」  同僚は殺気を引っ込め、彼の隣へむかう。  彼はLINEを打ち込み、同僚に見せた。  「オレが話をつけなきゃいけない男だ」  そう書いた。  「お前の恋人の相手か。なるほど。そら、男なら話つけなきゃな。・・・お前は男だぜ!」  同僚は頷いた。    「コイツになんかあったら、オレお前殺すから」  同僚は男に本気で言って、彼に敬意の目を向けて、去っていった。    会社の近所の公園を指定したのは彼だった。  スマホで文字を打ち出しその男に提案した。  「口が利けないのか・・・」    驚いたように言う男に彼はムッとした。  何か見下すようなモノを感じたからだ。    それでも二人は歩いて公園に移動した。  彼は再び男と向かいあい、睨みつける。  あの男は自分の言い方に彼が怒っていることを察し、謝罪する。  「すまない、驚いたんだよ。アイツが全部棄てて行った原因が、まさか口の利けない清掃員のためだとは思わなかったんでね」  だが、とても謝る言葉とは思えなかった。  「確かに・・・美しくはあるが」    無遠慮な目を向けてこられる。    男が距離を詰めてきた。   暴力の匂い、脅すような目。  威圧しようとしていた。  彼は着ていたパーカーに突っ込んだポケットの中で、拳を固めた。  彼は細く華奢に見えるが、ずっと身体を使って仕事をしてきた。  重い荷物も運ぶし、腕一本でロープで身体を支え、窓を拭いたりもしてるし、重い機械を扱う。  それにはそれなりの腕力がいる。  見かけ通りではない。  オレを暴力や何かで簡単に脅せるとか思ってるなら間違いだ。  17才の酒に潰れた少年ならば、この男はどうにかできたのだろうけど。  彼は怒っていた。  恋人からあの男との経緯はチラリと聞いている。  何でもないことみたいに恋人は話していたけれど、とんでもないと思った。   このクソ野郎は、まだ少年だった恋人を犯したのだ。    酒のせいで意識もないのに。  恋人は分かってない。   その後の乱れた性生活も、男と再びセックスするようになったことも、自分が好きでやったことで、なんてことのないことだ、みたいに思っている。  違うだろう。    彼には分かっている。  でも、恋人には言わない。   何故なら、恋人はそう思いたいと思っているから。  恋人は思いたいのだ。  「あんなこと大したことじゃない」と。  でも違う。  違う。  それは違う。  彼は思う。     あの男が近寄ってくる。  彼は怯えたふりをして待つ。  殴り方は知っている。  同僚が教えてくれた。  不意打ちの一発だけしか当たらないだろう。     「その綺麗な顔と身体だけで、俺から俺のモンを盗んだのか?、ガキ、俺は怒ってるんだぜ?」  男は怒りをかくそうともしない。    彼は待つ。  うつむき震えながら待った。    「怖がってるのか?」  バカにしたような声がした。  男はうつむき、再び前髪で覆われた彼の顔を、よく見ようと手を伸ばしてきた。  このタイミングを待っていた。  彼の左の拳が男のこめかみを撃ちぬいていた。    左脚を踏み出し、左の肘を固定したまま返し、体重を左脚から右脚に移す力で撃ち抜く。  同僚に教わった通りの、左フックだった。    男はゆっくりと倒れた。  地面に膝をつく。  「・・・怒ってるのはこっちだ!」   彼は自分でも気付かず、怒鳴っていた。  まだ怒りに震えていた。    「まだ17才の子供を!ゲス野郎!」  彼は生まれて初めて人を殴り、生まれて初めて人を怒鳴っていた。    生まれて初めて心の底から怒っていた。  手酷くイジメられた時でさえ、こんな怒りを感じたことはなかった。    無邪気に信じていた人間から酷い目に合わされた恋人のことを知った時から、抱えていた怒りだった。      信頼を暴力で踏みにじられた。  身体と心を引きちぎられた。  酷く傷ついた自分をまもるために、「大したことじゃない」ことにしようと、必死だった恋人の痛みへの怒りだった。  沢山重ねるセックスに痛みをごまかし、最後は自分を傷つけた人間ともすることで  「大したことじゃない」そう思わなければならなかった恋人の痛み。   そうさせたコイツへの怒りだった。  「あの人があんたのモノだったことなど、一度もない!」  彼は怒鳴った。    もう一発殴ろうかと思った。   でもやめた。                                     

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