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新しい日々1

 バシッ     ミットの中で拳が鳴った。    「ナイス!じゃあ最後、ワン・ツーからの4つ連打からのボディ、フックストレート」  サラッとキツイコンビネーションを要求されて、彼は思わず 笑う。  「イケるイケる!、はい、ラスト!」  ミットを友人は構えた。    彼は美しいフォームでしなやかにパンチを放っていく。  綺麗な身体の回転から撃ち出されるパンチは、キレもスピードも申し分ない。  今では短く切られた髪は、もう、美しい顔をかくすことはない。  美しい目は一心不乱に、ミットを見つめていた。  バシッ  最後のパンチまで決めた。  「はい、終わり~。着替えて仕事行くぜ」  友人が言った。  彼は頷く。  二人はリングから降りる。    シャワーを浴びて今日はこれから仕事に行かなければならない。  夜勤だ。  「お前ら仕事前に練習って元気だなぁ」  リングの下から見ていた会長が笑う。  「夜勤だからね~。オレは来月試合だし」  友人は答える。  友人は来月中国でキックボクシングの試合に出る。  日本では下火になってしまった格闘技だが、中国では今大人気なのだ。  「  君もそろそろ試合出てみたら?ボクシングの方で。アマチュアの大会あるよ」  彼に会長は言う。  彼は少し悩む。  「・・・考えてみます」  彼は短く言った。  「そう」  会長は優しく笑った。  5年前、友人に連れられてやってきた彼は、話も出来ない20才の青年だった。  顔を隠し、いつもどこかへ消えてしまいたいと願っているような。  お気に入りの愛弟子が、「これでコイツは結構【男】なんだ」と言ってはいたけれど、まあ遊び程度にジムに来たのだろうと思っていた。  それが。  まぁ。  結構根性があるので、選手達と一緒にしごいているうちになかなかのモノになってきている。  才能以前に、毎日毎日同じことを繰り返し練習出来る根気の良さが素晴らしい。  プロにするには、あまりにも優しすぎるけれど。  ボクシングは本当に上手くなってきていて、手だけのスバーリングなら、友人の相手が出来るまでになってきている。  頭が良いのがいい。  「また明日な、仕事頑張れよ」  会長は二人に言った。  二人は会長に頭を下げて、更衣室へ向かった。  「仕事前にメシ食っていこうぜ」  友人が言う。  「オレの家。試合前だろ」  彼が言う。  減量も始まる。  カロリーや油などに気をつけたい時期だ。  外食では栄養のバランスが悪くなる。    あまり調理が得意でない友人のために彼は良く、食事を作っていた。  「悪いな、ありがとう」  友人は笑う。  「ピーマン抜きな?」  心配そうに言われる。  結構偏食なのだ。  「却下」  彼は短く言って笑う。  短い返答でも話すようになり、髪を切り、顔を晒すようになり、決して得意ではないだろう格闘技を始めた。  必死で変わろうとして、戦い続けてきた彼を友人は誇らしくも思うし、それだけの痛みを思えば悲しくもなった。   外界から遮断された場所に咲く綺麗な花が、今、踏み荒らされるような街中で必死で咲いているようで。  昔、ふと見せたあの無邪気な透き通るような笑顔は今はない。  それは悲しかった。  でも。  彼は大人になり、どうにか生き延びようとしている。  痛みに背をむけず。  そんな、戦う彼は好きだった。    お前の傷は癒えたのだろうか。  友人は思う。  もう、歌わなくなった彼をみつめながら。  仕事を終えて彼は帰ってきた。  シャワーを浴び、身体を拭く。  昔とは違う身体が風呂場の鏡に映る。  色が白いのは変わらない。  でも、中性的なそう、胸のない少女にも見える華奢な身体はすっかり変わった。  細いことには変わりなく、無駄な筋肉などないけれと、筋肉はしっかりとその存在を示している。  中性的な男とも女とも違うような、あの人が好んだ身体ではもうない。  しなやかな男性の身体だ。  それに安心する。  「ヤらしい身体」  耳に残る声。  全身を舐めた舌を思い出せば、ゾクリとしたモノが身体をかけぬけてしまうけれど、あの頃の身体はもうない。  もう、あの身体であの男にすがりつき、喘いでいた彼はどこにもいない。  でも。  乳首に手をやってしまう。  優しくなで上げ、親指で押しつぶしてしまう。  あの人にされたように。  「ん・・・」  声が零れてしまった。  「胸弄られるの好きでしょ」  あの人が笑う。  吸われたことを思い出し、身悶える。  甘く噛まれた記憶。  「噛んで・・・」  思わず呟く。  自分で摘まみ、グリグリと押しつぶしす。  指は前にも伸びる。  あの人にされたように扱き上げ、先の穴を広げるように弄る。  「先っぽも好きだよね」  あの人の声が耳に残る。  「好き、気持ちいい・・・」  申告するように躾られたから、思わず言ってしまう。  胸を弄りながらそこを扱く。  あの人の指、舌、声。  まだ妄想の中では抱かれてしまう。    「ああっ」  声をこらえられない。  もう、あの頃のオレはいないのに。      髪を切った。  人に怯えて自分の中に閉じ込こもる自分を変えるために。   あの人が好きだった綺麗な顔にも傷をつけた。    スパーリングで二回目尻を切った。   鼻も折った。  良く見れば、顔は昔のようになめらかではなく、縫われた傷跡や、僅かに歪んだ鼻がある。    彼は今の自分の顔が好きだ。  強くなるための傷だから。     もう人と話せない自分でもなくなった。  苦痛を耐えるように、むしろ苦痛の中にいようとするように、彼は自分を変えていった。    歌ももう歌わない。    全身に流れる音楽を今はもう閉ざしてしまった。   そう、あの人が好きだと言った彼はもうどこにもいない。  なのに・・・。   あの人の指が追い上げるようにそこを扱く妄想から逃げられない。    「気持ち良いでしょ・・・イって」   記憶に残る声が囁くのだ。  「ああっ、出る・・・」  彼は達してしまう。  妄想の中の男の指で。    今も彼を抱くのはあの男であることが、悔しかった。  男しか知らないからだ。  そう言い訳する。    新しい恋を拒絶しているわけではない。  ジムで知り合った女の子や紹介された女の子と、二人程デートしたこともある。  奥手な彼にしては頑張った。  優しく楽しい時間も過ごした。    でも。 彼女達は離れる。  恋人になる前に。  「・・・友達でいいよ?」  そう、優しく言って。    そう言う理由は何故か聞けなかった。  でも、いつか新しい恋はしたいと思っている。  そして、まだ彼の中にいて、彼を抱く男を追い出したかった。  

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