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リフレイン2

 彼は歌わない。  彼が歌わない。  彼は歌わない。  彼が歌わない。  男は震えていた。  それはダメだ。  絶対にダメだ。    歌は彼だ。  肉体の彼や彼の心には触れられるし、抱けるし、傷つけられる。  でも、歌である彼は違う。  男がどんなに愛しても。  男がどんなに思っても。  決して届かぬ場所にいる、彼のもう半分だった。    僕は確かに人の愛し方など知らない。     男は認める。    彼をあれほど傷つけるとは思っていなかったのだ。    あの男に抱かれながら、彼を抱いていた時も。  あの女の肌に触れながら彼を抱いていた時も。  彼の歌を自分のために使い、しかもそれをあの女に歌わせた時も。  彼を傷つけるつもりなどなかったのだ。  いけないことをしている自覚はあったけれど。  ずっと自分のことばかり考えているのも認める。  彼を再び手に入れたいのも自分のためだ。  僕は自分のことしか考えられない人間だ。  それは分かっている。  でも、彼を手に入れたいと思って開き直った。    でもこれは違う。    これだけは違う。  彼が歌わないのはおかしい。  歌っている彼だけは絶対に男のものにならない彼だ。    誰のものにもならない彼だ。  それでも、深く愛している。  それも彼だからだ。  彼は歌わないといけない。  彼の歌は世界に流れることなどないだろう。  彼はそんなことはしない。  彼の歌を聞くのは限られた人達だろう。  でもそんなことは問題ではないのだ。  あの歌の凄さは。  あの声の凄さは。  奇跡なのだ。  男は決意する。  彼を手に入れるつもりだった。  何をしてでも。    でも、今は違う。  もし、彼がもう一度歌えるなら。  彼を諦めてもいい。      歌は彼だった。  始めてあった時から、絶対に触れることの出来ないと分かっていた、永遠に男が触れることなどできないところにある彼だった。  男は決意する。  彼に歌を取り戻す。    そのためになら、彼を失ってもいい。  「まさかあんたから来るとは思わなかったよ」  友人は憮然とした表情で言う。  男はにこにこしている。  何故か携帯で呼び出された。  何故番号を知っていると聞けば、格闘技イベントのプロデューサーから聞いたとあっさりばらす。  個人情報の扱いが適当すぎる。      自分や彼より年は少し上だろうに、自分達にはない大人な態度がムカついた。      すかしやがって。  友人は思う。  「何でも注文してね」  メニューを渡された。  男が連れて来たのは、ちょっと小洒落たレストランだった。  カジュアルな服装でも入れるような。  減量終了したばかりの格闘家をナメるなよ。  友人は嫌がらせも兼ねて片っ端から注文していく。  試合終わりの数日だけは、好きなだけ食べるのだ。  男は笑顔を崩さない。  「こんなんじゃ買収されねーよ。喰うけど」  友人は言う。  「そんなに簡単に君を買収できるとは思ってないよ。君を買収するより、君を消す方が簡単そうだ」  チラリとヤバい嫉妬をにじませてくる。  こっちの顔の方がにこにこされるよりよっぽどコイツらしい。  友人は思う。  「じゃあ、何の用だ」  友人は聞く。  友人もコイツに話があった。  彼は自分でどんなことでも対処できる男だ。  だから出来る限り、余計な介入はしないことにしている。  でも、今回は。  もう三度目に傷付くのだけは、さすがに友人も見過ごせなかった。  「お前どういうつもり・・・」  友人が言うのと同時に男が言った。    「彼が歌わない」  男は真剣な顔をしていた。  まるで世界の終わりでも語るように  「はぁ」  友人は間の抜けた声しかでなかった。     確かにうたってない。  歌ってないけど、まずする話がそれか?  「彼が歌わないなんて・・・そんなのダメなんだ」  でも、顔の前で組み合わされた男の指が震えていたから、男が真剣に話しているのは分かった。  芸術家てのは皆、こうなのか?  友人は呆気にとられる。  「歌ってないけど、それがどうしたんだ?代わりにボクシングしてるぜ。うまいもんだ」  友人は言う。  「ボクシングをするのはいい。何でもしたらいい。でも、歌っていないのはおかしいんだ」  男は言い切った。  友人は訳がわからなかった。  「君は格闘技しているよね、君はそこで生きている。君はそこで起こることを理解している」  男が言う。  なんとなく男が言いたいことは分かってきた。   リングの上で、友人は生きている。  普段の生活とは違う、そこはもう一つの生きる世界だ。  瞬間が永遠になる。    「彼にとって音楽がそうだ。むしろ、普段生きている世界の方が付属品だ」  男は言い切る。  あんな風に歌えるのは、ずっと自分の中を音楽だけで満たしていたから。  音を集めそれを紡ぎ、彼は自分の中を満たしていたのだ。  「今の彼は半分以下の彼だけで生きている。それはおかしいんだ」  男の言葉は分かってきたけれど、何故そこまで男が彼を歌わせることにこだわるのかがわからない。  「別にいい。歌ってなくてもアイツはアイツだ。オレは構わない」   友人の言葉に男の目が怒りに満ちた。  「自分じゃないものになって生きていけと?自分であることから逃げ出して生きるなんて、ダメだ!」  男が声を荒げた。  一瞬レストランが静まり返える。  男はすぐに笑顔を作った。  「君は彼のために格闘技をあきらめられるか?」  男は静かに聞いた。  意地悪な質問だった。  「・・・そん時にならないとわからねーよ」  友人ははぐらかす。  強くなりたい。  誰よりも強く。  純粋な欲求は何よりも強い。    「諦めたとしても、諦めたものが君の中で、腐敗していくだろう。君を蝕んでいくだろう。彼の中で今止めているものは、いつか彼を蝕む。僕のせいだとしても、彼は歌うのをやめるべきじゃなかった。僕に言う資格はないけれど」  男の言葉は届き始めた。  でも、と思う。  「何であんたにわかるんだよ」  友人は聞いた。  「僕もそうだからだよ。彼を裏切ってでも作品を完成させた。そのことに関しては全く後悔していないからだよ。あのステージは僕の最高傑作だ。それを疑わないからだよ。・・・僕も彼も君も。自分じゃないものにはなれない、それを止めればもう、死んでいるのと同じだからだよ」  男は微笑んだ。  「で、オレに何して欲しいの」  話だけは聞く気になってしまった。  彼を傷付けるはめになるのならごめんだが。  この世界の中には、幸せになるとか、目的とかそういうモノではない何かにとりつかれて生きて行くしかない人間がいるこのを友人は知っている。  自分もそうであることも。  その一瞬の勝利のために、残りの人生を全て投げ出したくなることは・・・よくあるのだ。  「いや、君に頼みたいのはこれからすることじゃないんだ。それは勝手にさせてもらう。君がとめようとしてもする。・・・君に頼みたいのは、全部終わった後のことだ。君にしか頼めないことだ」  男の言葉に不穏なものを感じる。勝手にするって。なにを?  止めてもするって何する気だ。  で、オレにしか頼めないないことって。  友人はますます混乱した。  男は微笑んだ。    そして友人にあることを告げた。  友人は絶句した。   

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