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変調2
「そうた、何故疑わなかった・・・五感に異常があるなら、まず調べるべきだったのに・・・」
男はブツブツつぶやいていた。
脳神経外科へ連れてこられた。
ここはこの辺で一番いいところだと男は言った。
こんなことにも詳しいのだな、と彼は感心した。
彼はMRI CT レントゲンを撮られる。
聴覚の異常、味覚の異常、そして、(これはどうしても病院では言えなかったが)、異常性欲。
これらは脳の異常からの可能性がある、と男は言った。
人から見れば検査を受けに来たのは男で、彼は付き添いに見えただろう。
緊張して震えているのが男だったから。
男は明らかに怯えていた。
だから彼は男が自分の手を握りしめていても、振り払えなかった。
彼も怖かった。
味覚が消えたのだ。
何かがおかしい。
検査され、待たされ・・・。
やっと診察が始まった。
彼は一人診察室に入っていく。
一人でいいと言い張ったのだ。
「・・・味覚がないのと、音楽がわからなくなったと」
医師の言葉に頷く。
レントゲン写真
CTやMRIの脳の映像がパソコンに映し出されている。
彼は緊張する。
母親の癌を告げられた日を思い出す。
いきなりの余命宣告だった。
オレは大丈夫。
何があっても大丈夫。
彼は汗ばんだ手を握りしめる。
「・・・・脳的には問題ないですね・・・、精神的なものかと」
あっさりと医師に告げられ、彼は拍子抜けした。
「神経内科の紹介をしておきますね、音楽の方はともかく味覚異常は身体のバランスが崩れているからかもしれませんね」
医者は言った。
ホッとして出て来る彼を、ガチガチに緊張して待っている男が見つめる。
その目に胸をつかれた。
この人は本当にオレを心配している。
それは痛い程伝わってきたからだ。
嬉しいと、思ってしまった。
彼は笑顔で言った。
「脳的には大丈夫って」
抱きしめられた。
人前だったし、あれほど触られることを拒否してきていたけど・・・彼は大人しくそのまま抱きしめられた。
男の腕の中は心地よかった。
続いて受診した神経内科でも大したことはわからなかった、むしろ、音を色で認識していたことを面白がられただけだった。
「共感覚ですね~」
医師は珍しそうに言った。
彼はこういうところの医師が大嫌いだ。
こういう医師達は、彼を普通ではない何かであると、彼を何かの名前のついた生き物にしようと幼い頃からしてきたからだ。
自閉症、かん黙症、アスペルガー・・・彼らは彼が普通でない何かだと言い、彼がおかしい、彼は違うものだと言ってきた。
違うものだと決めつければ、安心出来るかのように。
誰が安心できる?
医師たちか?
その結果、病院に行く前より彼の状態は心が傷付き悪くなるため、母親は連れて行かなくなった。
母親はただ、彼を変えようとしたのではなく、あまりにも繊細な息子が生きやすくなるためのヒントが欲しかっただけなのに。
この人達には、異常な何かであるとしなければ、この世界に彼はいてはならないかのようだった。
普通じゃない。
お前は違う。
そう言われているようだった。
「あなたはあなた。カタカナや英語やどんな漢字なのかも解らないような名前の何かじゃないわ」
母親がそう言ってくれたのが嬉しかった。
彼が唯一信用したのは、民間の援助団体の彼の就職先を紹介してくれたカウンセラーだけだった。
あの人だけは、彼を早く大人になろうとしている普通の少年として扱ってくれたから。
極端に無口ではあっても、話も出来る彼はさすがに今回は「何か」にされたりはしなかったけれど、
ビタミン剤を与えられただけだった。
結局、何もわからなかった。
彼は男に抱きしめられていた。
帰りの車の中で、男に震える声で言われたのだ。
「お願い。君を抱きしめさせて。それ以上はしないから」
男はすがるような目で言った。
「・・・いいよ。それ以上はダメ」
そう答えてしまったのは、多分、ずっと男が本気で心配してくれているのが伝わってきたからだった。
車が止められた。
男は助手席のシートベルトを外し、彼の身体を引き寄せた。
膝に乗せられ、向き合うように抱きしめられる。
強く抱き込まれて、男の胸に顔を埋めてしまう。
安心してしまった。
「良かった・・・良かった・・・」
男が震える声で呟く。
首筋に冷たいモノが落ちる。
男が泣いているのだ。
何かが胸の奥で溶けていく。
強く抱きしめられるのは安心感があった。
思わず自分からも抱きついてしまう。
甘えるように。
男が嬉しそうに笑ったのが聞こえた。
これはまずいと思う。
これは流されてしまう。
愛されていると思ってしまう。
今だけと思う。
甘えるように頬を胸にこすりつけた。
髪を優しく撫でられた。
心地よい。
心地良かった。
「愛してる」
囁かれた。
「・・・嘘つき」
そう言い返したけれど、その声は甘かったかもしれない。
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