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覚醒3
ラウンドが終わった瞬間、ジムの中に拍手が沸き起こった。 これは。
これは。
男は言葉を失った。
「・・・違う方向に覚醒しちゃったねぇ」
会長もぽかんと口をあけて見ていたが、やっと言った。
彼は踊っていた。
友人の攻撃は猛攻だった。
それを、もう動くことのできない彼がロープにおいつめられたまま、かわしていく。
まるで友人の攻撃がわかるかのように。
その場で脚を止めたまま、上半身の動きと、ロープにもたれることで身体をそらすことだで、至近距離の攻撃を避けていく。
「 かよ」
誰かが言った。
超絶技巧の世界チャンピオンの名前だった。
皆、見とれていた。
彼は友人の攻撃に合わせて踊っていた。
うっとりとした表情からそれがわかった。
苦しんでいるのは友人の方だった。
こんな至近距離からの攻撃をしかも、足を止めたままなのに全てよけられているのだ。
有り得なかった。
「何か出てきちゃったねぇ・・・鬼ではないけれど。ボクサーとしてはこれではだめだけどね、ぜんぶよけても攻撃できないんじゃ。でも、これは・・・すごい」
会長は拍手した。
彼は踊っていた。
彼にはメロディーが見えて聞こえているのだ。
それに合わせて踊っているのだ。
聞こえなくてもその美しさは分かった。
彼の動きがその音楽の片鱗をみせていたから。
危うく、美しい。
男は見とれてしまった。
ジムにいた全ての人が声もなく彼を見つめ続けた。
彼は奇跡のように、全ての攻撃をかわしていった。
最後のラウンドが終わった。
皆、今自分達がみたものが、物凄いことなのはわかったからだ。
歓声さえ上がった。
彼と友人は抱き合った。
友人が顔をくちゃくちゃにして笑っていた。
「すげぇな、お前、最後のラウンド一発も当たらないなんて・・・でも、オレの勝ちだけどな」
友人は彼の背中を叩く。
「うん・・・、だってパンチ当てれなかったからね」
彼も笑う。
酷い顔だった。
口は切れ、目は塞がりかかっている。
鼻には乾きかけた血がこびりついている。
「・・・男前になったな」
友人は笑った。
「・・・うん」
彼も笑った。
そこに会長の声が飛んだ。
「追加のラウンドがあるよ」
さすがに皆、凍りついた。
「会長・・・これ以上は・・・」
友人は意味がないと言いかけて、追加のラウンドの相手が自分ではないことを知る。
「いやぁ、会長、それはいくら何でも・・・」
違う意味で友人は止めに入る。
会長がグローブをはめてやってあるのは、ヘッドギアをつけて、つくったばかりのマウスピースを装着した男だったからだ。
「ど素人ですよ!?」
トレーナーも驚いて叫んだ。
「どうやっても引きずり出したいんだと。結局、違う方向に覚醒しただけで出てこなかったからね。それに多分、確かにこうした方が、その子にも理解が出来る。本人が良いと言ってるし、昨日何があっても責任は自分にあるって書類に一筆サインしてくれているから大丈夫」
会長が言った。
「追加のラウンドは無制限。終わるのはこの人をリングに這いつくばらせたら終わり」
にっこりと、会長は言った。
ジムの全員が絶句した。
「ダメだよ、やめて」
彼は首を振った。
男を叩きのめせ?
そんなこと出来るわけがない。
「・・・君は遊びにこのジムに来てるのか?ソイツを見ろよ、自分の親友の顔をボッコボッコにしてみせたぞ。なら、君も僕にそうしてみろ」
男はグローブで友人を指し示しながら、言った。
そしてリングに上がってくる。
「オレとあなたでは違う。オレはちゃんと練習を積んでからだ。あなたとオレでは実力が違いすぎる」
まだ、男はここに通い始めで一週間たつか立たないかなのた。
パンチ一つまともに撃てない。
「・・・君は試合で相手が自分よりはるか
に弱かったら試合を止めるの?」
男は言った。
体格からすれば、背が高くパーソナルトレーナーに指導されながら筋トレしていた男の方が身体も大きく、彼よりははるかに強そうには見える。
「それとも、手加減して優しく試合してあげるの?そんな風にここで教えられたの?」
男は言う。
何でそんなことを言う。
何でそんな風に言う。
彼は困る。
「そうだねぇ、君にはたりないねぇ。そういう苛烈さが。ボクは教えてるはずだよ。リングで向かいあっている以上、敬意を持って全力で叩きのめせと」
会長が言った。
「君には足りない。優しいと言えば聞こえはいいけどね。リングの上には2つの道しかないんだよ。勝者か敗者か。最初から負けても構わないと思っている者は立ってはいけない場所だよ。そして勝つってことはその手で自分の欲しいモノをもぎ取りに行くってことだ・・・君にはないねぇ」
会長はため息をついた。
「・・・病気の息子の為に頑張ってたたかっている相手でも、叩きのめすの。ボク達は。どんな相手でも叩きのめすの。ボク達が欲しいもののために。それが出来なきゃ、君はボクサーじゃないよ。ボクは君がリングの上で戦わなくてもいいと思ってる。でもね、これからもボクの教えを受けるのなら、せめて、自分がどうしても諦められないものを誰にも譲れない男になりなさい。だから、これをやってのけなさい」
会長は言った。
彼に断ることは許されなかった。
彼は震えながらリングにあがった。
自分より強い人達とはやりあってきた。
殴られることも倒されることも恐れない。
でも、これは違う。
これは違う。
彼はグローブを合わせて、スパーリング前の挨拶を男としながら苦しんでいた。
この人をリングに沈める?
そんなそんなそんな。
・・・多分、まだ愛してはいるのだ。
男はニコニコ笑いながらグローブをあわせていた。
分かってないんだと思った。
この人は人に殴られることがどういうことなのか分かったないんだ。
ここに来るまでの彼と同じでこの人が喧嘩などには縁などなかっただろう。
だからこんなことが出来るんだとおもった。
腹立たしかった。
一発殴れば分かってくれるだろう。
ムカつくから一発は思い切りなぐれる。
良かった。
もう、彼からは止めれないけれど、会長は男が「止めて欲しい」と言えば止めてくれるだろう。
「無理すんな、ダメだと言ったらすぐ辞めろよ」
同じように考えていたらしく、友人も男に言っている。
ラウンドの始まりを告げるブザーが鳴った。
彼はこんなにも簡単にパンチが当たることに・・・驚いた。
勢いよい飛び込んできたのは男だった。
だが、ガードもにもない剥き出しの顔を殴るのはあまりに簡単すぎた。
ワン・ツー
顔のど真ん中を打ち抜いた。
会誌数秒で、男は鼻血を流していた。
「・・・弱すぎる」
友人の言葉が聞こえた。
いや、本当に。
まさか、こんなにも簡単に・・・。
彼は呆然とする。
だが男は鼻血を流しながらもまた突っ込んでくる。
何故?
あなたが何故そこまでするんだ?
彼は戸惑う。
それでも彼はまた突っ込んでくる男の右脇腹を思い切り左の拳で突き刺した。
「かはっ」
男は呻いた。
男は膝をつきそうになるのを堪える。
彼は困る。
彼は困る。
堪えてなど欲しくなかった。
さっさと嫌になって「止める」と言って欲しかった。
彼が今までしたどんな練習よりもそれは辛かった。
彼はまた突っ込んでくる男にパンチを出さないわけにはいかなかった。
もう来ないで
彼は悲鳴のように思った。
全ての攻撃は吸い込まれるようにマトモにあたった。
素人相手に殴ることがこれほど容易いことなのかを彼は初めて知った。
それは最悪の感覚だった。
強い人間相手に繰り出す拳は熱く、強い人間相手ならば、肉体は痛みさえも高揚にかえた。
でも。
今。
彼の拳が何度となく、男の顔をとらえる。
グローブの中の拳は、肉を殴る感触を伝えてくる。
それは愛する人の肉だ。
何度となく、唇を落とし、指で触れた人の肉だ。
冷たく身体が冷えていく。
目の前で男の顔が苦痛に歪む。
それでも、それでも、それでも。
殴られることには慣れてないだろうに。
喧嘩の一つもしたことはないだろうに。
それでも、男は倒れることを拒否するのだ。
「もう一発で沈めてやれ・・・」
友人が辛そうに叫ぶ声がする。
そうした方がいいのは分かっている。
でも、でも、でも。
息を荒げ、鼻から血を出しながら、必死の形相で男は向かってくる。
男の殴り方はムチャクチャだが、本気で向かって来ていることは分かった。
ああ、あなたはオレを殴れるんだ。
男はふと気づいた。
こんなにもオレがあなたを殴ることに、躊躇い苦しんでいても、あなたはオレを殴るのにそうは思わないんだ。
彼は両手を下げたまま、男のパンチを軽々と頭を動かすだけでよけた。
音楽が流れ初めていた。
それは、自分の中から流れる音楽だった。
彼はその曲をずっと拒否し続けてきたことを知る。
男が彼を殴りにくる。
男が彼を傷つけにくる。
優しく身体を撫でた手を握りこんで。
その唇で愛した身体に痛みを与えるために。
オレのためだ。
オレのためにそうしてるんだ。
彼はそう理解をしようとした。
楽々と男のパンチをよけながら。
友人のパンチでさえ避けれた彼に、男のパンチなど呼吸するほど簡単に避けられた。
聞こえてくる音楽を彼は理解したくはなかった。
それを聞くことをずっとずっと拒否しつづけてきたのだと彼は知った。
身体の一番奥で何かが開こうとしていた。
男が思い切り殴りにきたパンチを、彼はあえて受けた。
男の顔が歪んだ。
拳を傷めたのだろうか。
人を殴れば痛い。
殴り方を知らなければ、自分の拳を痛めてしまう。
ピアノにさしさわりがでるよ。
彼はそう思った。
あなたのピアノは好き。
それはずっとずっと変わらないだろう。
彼は思った。
彼は泣いていた。
殴るのが嫌だからではなかった。
男は顔を歪めながら、それでも反対の手で殴りに来た。
彼は男に向かって微笑んだ。
それは殴られ顔が腫れ上がっていても、それでも美しいと思わせてしまうような笑顔だった。
でも男は殴りにいった。
何故なら愛していたから。
彼を傷つけることを躊躇わないほどに。
彼はそんな男の拳を頭でよけて、男の身体が一番伸びきったところで、自分の拳を合わせた。
カウンター。
相手の力を利用して撃つ、高等技術。
一発で人を沈めるための、パンチだった。
彼は男の顔に拳を叩き込んだ。
・・・憎かったから。
深く深く、彼が閉じ込め続けてきたのは、男への憎しみだった。
彼が閉ざし、聞くことを拒み続けていたのは、男への憎しみの音楽だった。
憎みたくなどなかった。
愛していたから。
愛していた。
今も、昔も、あの瞬間も。
・・・でも、憎かった。
憎かった。
憎かったのだ!!
彼はゆっくり倒れていく男を見ながら叫んでいた。
それは音楽でも何でもない。
ただの心を引き裂かれた者の叫びだった。
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