59 / 75
歌
目覚めた男が見たのは、心配そうに覗き込む友人の顔だった。
「なんだ君か・・・」
男はがっかりしたように言った。
「心配してついててやったのにこれか!」
友人は怒る。
でもホッとしているようだった。
「いやぁ、良かった。ど素人を殺してしまったら大問題だからねぇ。一筆書いてもらってても。今回のことは絶対に誰にも言わないでね?と、今日きた全員に念押ししてきたから、君達もよろしく」
会長はニコニコして言った。
その言葉には有無を言わせないものがあった。
誰も言わないだろう。
この男はこのジムの王なのだ。
ここではこの男が絶対なのだ。
ここに住む鬼達の王様。
見た目通りの人の良いおじさんだとは、男は二度と思わない。
顔が痛い。
本当に痛い。
「・・・二度としない・・・僕には向いてない・・・」
男はつぶやいた。
「才能ないねぇ・・・本当にないねぇ。でも、ガッツはあるけどね」
会長が笑った。
「彼は?」
男は尋ねた。
見回す。
ジムのどこにも見あたらない。
皆、それぞれ練習を再開している。
「・・・多分屋上にいる。凹んだら大概あそこにいるんだ」
友人が言った。
複雑な顔をしていた。
「そう」
男は起き上がった。
フラフラしているが立てる。
「・・・今日は寝たらだめだよ。一人でいないこと。そういう倒れ方して、寝たらそのまま起きてこないことがあるからね」
会長が言った。
「はい」
男は頷く。
男は屋上に向かおうとしていた。
「・・・出てきたね」
会長が言った。
「はい」
男は頷いた。
彼の中を割りそれは出てきた。
「・・・それで君には良かったの?、出てこない方が君には良かったんじゃないの?」
会長は尋ねる。
「・・・いいんです。僕は自分のしたことを引き受けているだけです」
男は笑った。
「・・・君は本当に酷いパンチしか撃てないし、計算高いし、猫も被っているけど・・・君は勇敢だよ」
会長は言った。
「バレてましたか」
男は頭をかいた。
「うん。格闘家は嘘つきだからね。相手を騙しながら戦うし、相手の嘘を見破りながら戦うし、時に自分に嘘をつく。嘘のエキスパートだから。でもね、あの子に対する想いには嘘がなかったからね」
会長はため息をついた。
「君の望む結末はこれだったのかい?」
その問いには答えなかった。
ジムは3階建ての建物だった。
男は階段を上がり屋上への扉をあけた。
彼は屋上にいた。
フェンスすらないその屋上で、建物の縁に腰掛けていた。
川沿いに立つこのビルからは、黒く流れる川が見えた。
彼は小さな声で歌っていた。
小さな声で。
それは痛みを癒やすような、子守歌だった。
男性でも女性でもない声が、甘やかすように歌う。
小さな声なのに、空気に甘く広がり、匂いのように響いた。
男の顔の痛みが、鼻の痛みが、脇腹の痛みが、和らぐような気がした。
彼が男に気付く。
歌が止まった。
「その鼻、腫れるよ。明日ナポレオンフィッシュみたいな顔になる」
彼は男を見て笑った。
ナポレオンフィッシュが何なのかは彼と良く行った水族館のおかげで男は知っていたので、思わず笑った。
腫れ上がったような顔の魚だ。
彼も人のことは言えない顔だった。
互いの顔を見て笑いあう。
「・・・絶対に殴り合いなんかしようと思ったらダメだよ。あなたは本当に向いてない」
彼は優しく笑った。
「うん、金で解決するようにするね」
男は言い切った。
「ホントに・・・」
彼は呆れたようにまた笑った。
不意に沈黙が流れた。
これから始まることを二人とも知っていた。
「歌えるようになったんだね」
男は彼の隣に座る。
夜の川は黒い。
ここは河口付近だから、黒い水が黒い海にそそぎ込まれるのが見える。
「・・・母さんか死ぬ前にね、痛くて眠れない夜にね、あの歌を歌ってあげてたんだ」
彼は今日はいつになくお喋りだ。
怖がっているかのように。
「・・・そう、素敵な歌だ」
男は微笑んだ。
手を伸ばし、彼の髪をなでる。
彼は拒まない。
美しい形の目は今は塞がるように腫れ上がっている。
唇の腫れ上がっている。
それでも、男の目には彼は美しくみえた。
「・・・歌って」
男は囁いた。
全てを終わりにする歌を。
これを聞けば終わってしまうと知っていて。
それでも男はそれを願った。
「・・・あなたは、どうして・・・」
彼の顔が歪んだ。
でも彼は泣かない。
知っている。
彼は彼を傷つけた者の前では泣かない。
「もう一度歌って。僕のために」
男は彼を抱きしめた。
全てを終わらせる前に。
名残惜しそうに男の腕が離れた後、彼は目を閉じた。
自分の中で響いているそれを、解放する時が来た。
これは5年間ずっとずっと、彼の奥深くで鳴っていた。
彼はそれに気付かないふりをした。
それを聞かないために、自分の中を塞いだ。
そんなもの、聞きたくなかった。
だからそれはゆっくりと彼を蝕んで言った。
そう男が言うように内部からゆっくりと腐さるように。
それから逃げ続けていたならば、彼は音楽や色や味覚だけではなく、自分自身も失っていったかもしれない。
それでも、今でも、彼はそれを認めたくはなかった。
なぜ?どうして?
男に言いたかった。
なぜそれを呼び起こしたのかと。
でも、その答えもわかっていた。
彼がそれを閉じ込めた理由と同じだ。
愛していたから。
彼は胸に手を当て歌い始めた。
何もない世界を彼は歌う。
真っ白な。
何もないことは悪いことではなかった。
そこは静かで、心乱すものはなく、ただ彼と音楽だけがあった。
柔らかな日常。
流れて行く音。
夜の隙間に誰もいない建物で。
建物の壁で風に吹かれて。
彼は彼の歌を歌う。
ある日ピアノの音が真っ白な世界に降り注ぐ。
色のない光。
彼は光に魅せられる。
思わずその音を追う。
その音の先に、その音を餌に。
その腕の中に引き込まれる。
奪われるように。
真っ白な世界に官能がうまれる。
一人しかいない世界では決して存在しないもの。
誰かがいなければ、感じられないもの。
怯えながらも、彼はそれに溺れていく。
そして、官能と共に生まれたもの。
ほのかで柔らかい恋情だった。
淡いそれは、少しずつ育つ。
花のように育つ。
怯えながら、でも、はにかむように。
何もなかった場所にそれはゆっくりと咲いた。
でも、裏切りがうまれる。
何もなかったからこそ、疑念などなかったその場所を思いもしなかった悔しさが満たした。
彼には耐えられない。
こんな黒い感情には耐えられない。
悲しみと悔しさ。
彼はそれをせっかく咲いた恋情とともに枯れるのを待つことにする。
真っ白だった世界は、その頃には沢山の色で溢れていた。
彼は悲しみと悔しさの色も認める。
それも彼の世界の色の一つだと。
喪失の色を知り、友情を得て。
彼の世界は深くなっていった。
そこに、失った恋が帰ってきた。
彼は歓喜を知る。
失ったものが帰ってくること。
去ったはずのものが戻ってくること。
最大限に鳴り響くメロディー。
祈りもしなかった願い。
どこまでも響く高音の。
そして、彼の枯れたはずの恋情は蘇り、確かな愛へと変わっていった。
彼は赦す。
愛していたから。
誰にも触れさせない身体の一番奥まで明け渡し、
誰にも聞かせなかった声で、その歌までも与えた。
誰も入れなかった世界の半分を与えた。
何も持っていなかったから、何も持っていなかったからこそ。
彼は与えられる全てを与えた。
本当に全てを。
音楽でさえ。
彼は彼の愛を歌った。
彼が男に捧げた曲だ。
それは、彼の全てだった。
誰も愛したことがなかったからこそ、母親でさえ入れることのなかった場所にまで入れた男へのラブレターだった。
ただひたすらに愛した。
無我夢中で愛した。
その全てで信じた。
でも、それは裏切られた。
ラブレターは人前に晒されていた。
彼の愛は公衆の面前で、晒されていた。
しかもその歌を歌うのは、男が彼といない夜、むしろ最後の日々は彼よりも多く抱かれていた女だった。
彼が寂しさを信じて耐えた日々に、その歌は晒され、信じた人はその女を抱いていた。
そして、時折何も知らず、裏切りの中で抱かれていた。
信じ切って、甘く溶けたまま。
彼が捧げた全てのものが、踏みにじられ、それは煌びやかな光の下で拍手喝采されていたのだ。
真実は苦い。
彼の中で、何かが生まれた。
何かが、悲しみと悔しさを餌にして育っていく。
それは憎しみと言った。
華やかなステージは彼の歌を無残に曝す。
憎い。
その歌を誇らしげに高らかに歌う女は、男の下で、その白い身体で淫らに蠢いたのだろう。
憎い。
信じながら、なにも知らず、愛しながら、笑いながら、思いながら、寂しさに悶えながら。
たまに戻る男に、欲しがりしがみつき、抱かれていた屈辱。
憎い憎い憎い憎い憎い。
男が憎い。
愛していたから、あまりにも憎い。
それは絶叫のようなメロディーだった。
「止めてくれ!!」
そのメロディーに耐えられなかったのは男だった。
でも、聞きたがったのは男だ。
それは許されない。
この歌はまだおわっていないのだ。
それでも愛はあった。
悲しいけれど、愛はあった。
彼は憎しみを封じた。
そのメロディーを聞きたくなかった。
一緒にいられなくても、もう会えなくても、憎みたくなどなかった。
だから、彼は歌を閉ざした。
歌は彼の全てだったのに。
全てを捧げて愛した男に裏切られた憎しみを、
全てを捨てて、封じたのだ。
愛していたから。
自分を腐らせながら。
でも、それは今、解放されたのだった。
歌は終わった。
ともだちにシェアしよう!