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秘密1
男はそのままジムに戻って来なかった。
彼が友人と家に戻ると、男の荷物はなく、玄関の新聞受けから玄関に、合い鍵が投げられていた。
「・・・良かったのか?」
友人は複雑な顔で言った。
「ちゃんと嫌いになれって言ったのは君じゃないか」
彼は小さく笑って言った。
わかってた。
男があの場所から立ち去った時から、いや、あの歌を歌い始めた瞬間にこうなると知っていた。
だから、冷静だった。
「そうだけどさ、そうだけどさ・・・」
友人は何か納得いかないようだった。
もごもごしていて、でも、何もいわなかった。
「変なの」
彼はクスリと笑った。
また、明日から日常が始まるのだ。
男のいない日常が。
それは確かに、寂しいだろう。
あの男は・・・。
めちゃくちゃで、ワガママで、好き放題で。
でも優しくて、楽しかった。
優しいひと。
愛しいひと。
ひどいひと。
いつか思い出になれば、赦せるだろうか。
柔らかで優しい思い出だけを抱きしめられるだろうか。
その指や舌を考えないで、自分を慰めなくても良くなるだろうか。
「送ってくれてありがとう・・・でも、今日は一人にして」
彼は友人に言った。
友人は何か言いたそうで、でも、言えないようで。
「お前も今日は頭撃たれてるから、朝までねるなよ」
それだけを告げて去って行った。
寝たりなんかしない。
誰もいなくなった部屋で、彼は自分で自分を慰めた。
前を扱き、後ろの穴を弄った。
「 」
男の名前を叫んだ。
本当に抱かれていた時にはそんなことしなかったのに。
憎くて・・・愛しい人。
「・・・最後にもう一回くらいすれば良かったな」
彼は泣きながら呟く。
そしてそれが、
「・・・あの人が言いそうなことだな」
そう思えて笑った。
でも、あの人はそれを言わなかった。
性欲の塊のくせに。
キス一つせずに去っていった。
「・・・らしくないことを」
彼は笑った。
泣きながら。
名前を呼びながら、何度も何度もイった。
時間だけが癒やしてくれることを彼は知っていた。
穏やかな日常が過ぎて行く。
男が再び現れる前の日々と同じように。
仕事をし、ジムに通う。
いや、同じではない。
今では音楽は常に鳴り続けている。
彼は歌っている。
前のように。
一人誰かに聞かせるつもりなどなく、ただ自分の中に溢れるものを。
たまに友人が聞いてはいるが、それは聞いているだけで、友人の為に歌ってはいない。
曲を書き始めた。
ただ溢れるだけではない、自分の想いを乗せた物語のような曲を。
誰かに聞かせるつもりはなかった。
ただ、曲を作るのは面白かったのだ。
男に教えられたやり方で五線紙に曲を書き留めていった。
プラネタリウムや水族館に久しぶりに行った。
いつか誰かを愛したい。
男ほど愛せなくても。
彼はそう思いさえした。
憎しみは存在はしていても、もう内部から彼を腐らせることはなかった。
男が去ってひと月ほど経った。
男の名前を久しぶりに見た。
めったに見ないテレビをなんとなくつけておたら、男の名前が聞こえて、思わず見てしまった。
テレビ番組でアマチュアの歌のコンテストをするらしい。
優勝者には男が作った歌が歌えるらしい。
「どうしても断れなかった仕事」ってこれのことか。
彼は思った。
テレビで参加者を募集していたがそれには興味なかった。
仕事を放り出してきた男がまた仕事がちゃんと出来るのか心配だったが、まあ、確かに男は既に沢山稼いでいたからそんなことは心配しなくてもいいだろう。
彼はテレビを消した。
もう、違う世界で生きていくのだ。
二人とも。
もう、こんな風にテレビでもない限り、男の名前を聞くこともないと思っていた。
だけど、すぐにその名を聞いた。
「 君とはもう会ってないの?」
会長だった。
にこにこしたまま、言われた。
練習終わり、ジムの片付けをしていた時だった。
まあ、確かに聞かれることはおかしいことではなかった。
あれほど来ていたのにパタッと来なくなったのだから。
「・・・はい」
彼はそうとだけ答えた。
「・・・そう」
会長は何か考え込んでいた。
何故か友人が、オロオロしていた。
と言うより、友人は男が去ってから、ずっと様子がおかしい。
何か言いかけては壁に頭をぶつけたりしている。
男が去ったことに「嫌いになれ」とか言っていたからの罪悪感かと思っていたけれど、様子がおかしすぎる。
「・・・まあ、すぐにこのジムからいなくなるのは聞いていたんだけどね、寂しいねぇ」
会長の言葉に彼は驚く。
あの人はそんなことを言っていたのか?
彼は何も聞いていない。
「・・・あのね、秘密にしておいてくれって言われたけど言っちゃうね」
会長が言った。
秘密?
何のことだ?
「会長~!!」
友人が慌てて叫ぶ。
「・・・約束なんて、破ってもいいんだよ。時と場合によっては」
会長が友人に言った。
「彼ね、もうそんなに長くないの」
会長はさらりと言った。
彼は言われる言葉の意味がわからなかった。
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