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奪還3

 彼は怒っていた。    何故オレがこんなところで歌うことになってるんだ。  生放送のステージで。    あの人は真面目に仕事をしていない!  彼は確信していた。  ちゃんと仕事をしていたら、地方予選で彼が歌っただけで彼が現れたことも、その意味もわかるはずで、絶対に何らかのリアクションがあるはずだった。  ちゃんと仕事をしていたら、本番が始まる前に彼が出場する前に彼に気付くはずだった。  結局、本番まで来てしまった・・・。  あなたは、本当に、適当すぎる!!  彼は怒っていた。  司会者に何か言われ、的はずれなことを返した気がする。  会場に笑い声が起こったが、どうでも良かった。  目立つことをあれだけ避けて、隠れるように生きてきたのにどうでも良かった。     怒っていたから。  審査員席が見えた。  驚きに固まっている男が見えた。  あなたのせいだ、  あなたのせいでこうなった。  あなたが悪い。  あなたなんか嫌いだ。  あなたなんか馬鹿だ。  思いつく限りの罵声を心の中で浴びせる。  ただ、男に会いたいだけだったのに。  もう、歌うしかなかった。  「演奏はいらない、アカペラでお願いします」  彼は言った。  予定した歌は誰でも知っているというポップスだった。  だがいい。  もう、いい。  この馬鹿に、審査員席から呆けたようにこちらを見ているあの馬鹿に、わからせてやる必要がある。  ここまでこうしてきた意味を。  「えっと」  司会者は引きつった笑顔で言った。  「アカペラで」  彼は再度言った。  生放送だった。  司会者は決断する。  好きにさせよう。     「それでは歌ってもらいます、曲は・・・」   その曲は歌うつもりはなかったがどうでもよかった。  彼はステージの真ん中に立ち、沢山の人に見られていた。  カメラの向こうにはもっと沢山の人が、みているだろう。  そんなことすらどうでも良かった。  いや、むしろ。    オレがここでこの歌を歌う意味をあなたは知るべきだ。  彼は男を睨みつける。  男しか見ていなかった。    そして、なかなか始まらないまま、少しざわめきが生まれた時、音楽は突然はじまった。  滑るように低音から高音まで音がスライドしてく。  男性では出ない領域で、高らかに音はなった。  それが声であることに人々は最初気付かず困惑した。  そして、それが声だと知り、会場は歓喜した。  拍手が沸き起こった。  彼はシャウトした。  それは、あの舞台で歌われた、男の手で編曲された、彼の曲。  男へのラブレターだった。  男はそれを悟り凍りついた。  彼の曲には歌詞はなかった。  だから舞台用に男が歌詞を書いた。  一度しか聞いたことのない歌詞を彼は完璧におぼえていた。  一度聴けば、彼はどんな曲でも歌えるのだ。    彼は思った。  この歌詞は悪くない、と。  彼はリズムを刻む。  声で、フレーズで、ブレスで、歌わない間で。  切なくなるメロディーを男は、ハードなロック調に仕上げていた。     これも悪くない。  彼は思った。  会場は湧いた。  踊った。  それでもこぼれ落ちる切なさに、胸を締め付けられながら人々は手を振り上げた。   女は完璧にこの歌を歌ったが、彼はこの歌を自在に走らせた。  声は会場の全てに存在していた。  歌は会場の一人一人の胸に響いた。    それはただ、一人のためだけに歌われる、削られるような、ラブソングだった。  彼は男だけを見つめて歌った。    許せない。    今でも。  愛してる。  今でも。  憎んでる。  今でも。  きっとあなたが明日いなくなるかもしれない現実を目の前に突きつけられなければ、時間だけを味方にし、痛みも、憎しみも愛も、和らぐの待っただろう。  どこかで、あなたが幸せになることを祈れたかもしれない。  でも、あなたが明日いなくなるかもしれないと思った時、思ったことは一つだった。  あなたが欲しい。    失われてしまうのならば、失われるまではオレのものにしたい。  オレにはそれくらいの権利はあるはずだ。  彼は男に向かって歌った。    それはもう、切ない純愛ではなかった。    憎しみもあった。  痛みもあった。  愛もあった。    でも、だからこそ、失われる前にそのすべてを、そのままで抱きとめようとする、叫びのような欲望があった。  あなたはオレのモノだ。  彼は歌いながら男に手を伸ばした。  彼は確信していた。  彼は男を捕まえた。  だって男はいつだって、彼の歌から逃げれない。  多分。   多分。  あなたを捕まえたのは、オレなんだ。  彼は最後の音を歌いあげた。  その声は心の一番柔らかい場所を、迷うことなく貫いた。  その声が消えた時。  会場は静まり返った。  そして、次の瞬間、歓声とすすり泣きが会場を満たした。  彼は魂が抜けたようにただ、立ち尽くしていた。  

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