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第3章 第4話side.悟

〜side.(さとる)〜 「好きなだけ触れていいんだよ」 環生(たまき)の頰を優しく撫でると、環生はじっと俺を見た。 緊張と、先の快楽への期待が入り混じった表情。 少し潤んだ瞳に映る俺の姿。 初めて見る煽情的な環生に軽い戸惑いと興奮を覚えた…。 『悟、久しぶりだね。今日はどうしたの?』 総務課で俺を見つけた環生(たまき)は、驚いた顔をした後、嬉しそうに微笑んだ。 驚いたのは俺だった。 久しぶりに会った環生は見違えるほど垢抜けていた。 体つきや仕草もどことなく色っぽい。 前はナチュラルな雰囲気だったのに。 何が環生をそうさせたんだろう…。 環生は2歳年下の会社の同期。 素直で優しくて思いやりのある環生は皆の癒し係だ。 人目を引く存在ではなかったし、人前で何かを主張するのは苦手そうだったけど、環生はよく周りを見ていて、細やかな気配りができる貴重な存在だった。 皆、環生が好きだった。 でも、環生はいつもどこか自信がなさそうにしていた。 俺は昔から割と目立つ容姿をしていた。 勉強も運動も少し努力するだけですぐに結果が出た。 家もそれなりに裕福だったし、挫折知らずの俺は自分が優れていると思っていた。 そんな俺に友達と呼べる存在なんていなかった。 特に同年代の男から敵視される事が多かった。 悪口を言われる事も、嫉妬される事も、嫌がらせをされる事もたくさんあった。 相手にするのも、無視するのも面倒くさくて、完璧に振る舞う事で、周囲を黙らせてきた。 そんな俺の条件に魅かれた者は数知れず。 男女問わずすぐに媚びてきた。 若気の至りで、気まぐれに一夜を共にする事もあったけど、俺の肩書きや見た目にしか興味がない人間の相手をするのはすぐに飽きてしまった。 相手を続けるのも、いちいち断るのも億劫になった俺は1人の男を雇った。 俺の恋人を演じるための俳優志望の男だった。 贈った指輪を左手の薬指にはめた彼は、人前で俺の恋人らしく振る舞い、俺は対価として彼の生活の面倒を見た。 俺が偽りの恋人に夢中になる姿を見て、多くの者は次第に離れていった。 愛人でもいいという奴の前では、これでもかと惚気てみせた。 彼とは完全に契約だけの関係。 それでも一緒に食事や映画に出かけたり、彼の芝居を観に行ったりと、それなりに楽しく過ごしていた。 その関係が続いている最中に環生と出会った。 環生は俺の周りにいた連中とは明らかに違っていた。 俺を1人の人間として対等に接してくれた。 純粋に俺を尊敬して誉めてくれたし、『悟はいつも頑張り過ぎだから休もう』と、俺の分の焼き菓子やコーヒーを用意して、俺を気づかってくれる事もあった。 俺は環生に感謝していた。 環生がいなかったら、この会社は敵だらけだった。 仕事中は環生と過ごす瞬間だけは安らぐ事ができた。 環生をかけがえのない存在だと思うようになった。 そんな生活を送るうちに、環生が俺に特別な感情を抱いている事に気づいた。 俺にとっては衝撃的な出来事だった。 今思えばだいぶ偏った感覚だったと思う。 結局環生も、言い寄ってくる奴と同じだった事に絶望した。 環生の顔と、俺にすぐ脚を開いた昔の遊び相手の姿が重なって見えて、心がそれを拒絶した。 俺は環生が特別で、その他大勢の奴とは違うと思い込んでいた。 環生は色恋沙汰に興味はない清らかな存在だと、勝手に神聖視して依存していた。 環生を失いたくない俺は、環生の気持ちに気づかないふりをし続けた。 環生の前で恋人の話をして牽制し、告白をさせないように仕向けた。 そうすれば環生はずっと仲のいい同期として俺の側にいてくれる。 そうしているうちに、環生は営業先の男と恋をしてすぐに同棲を始めた。 環生を他の男に奪われて初めて、俺は環生への想いに気づいた。 この気持ちが恋だと知った。 恋をしたのは初めてだった。 今までは自分が好きかどうかを感じる前に告白される事ばかりだったから。 嫉妬という感情を抱いたのも初めてだった。 嫉妬は俺にとって『するもの』ではなく『されるもの』 今まで、嫉妬は醜くて生産性のない愚かな感情だと蔑んできた。 それなのに俺は、環生を手に入れた見ず知らずの男に嫉妬した。 幸せそうに恋人の事を語る環生の唇を何度塞ごうと思った事か。 何度、組み敷いて無理矢理にでも体を奪おうと思った事か…。 夢の中で何度も環生を抱いた。 『やっぱり恋人より悟がいい。悟が一番好き』 そう言って夢の中の環生は涙を流しながら何度も俺を求めた。 結局俺も、俺に言い寄ってきた奴と同じだった。 環生の気持ちを無視して、自分の都合のいい夢を見て欲望をぶつけた。 そんな邪な思いを抱いていた俺に与えられたのは、環生との物理的な距離だった。 研修や長期の出張が増えるようになり、入社翌年には本社へ異動になった。 『聞いてよ、悟。彼が俺の作る唐揚げを美味しいって言ってたくさん食べてくれたの。毎日愛してるって言ってくれるし、幸せすぎてどうにかなりそう』 ふわふわと微笑む環生に想いを告げても、困らせるだけだ。 俺は何も告げる事ができないまま、環生の前から姿を消した。 異動してからは忙しくて、なかなか連絡ができなかった。 『元気にやってる』の一言でよかったのに、もっと気の利いた内容を…と、考えているうちに毎日は過ぎていった。 間が開けば開くほど連絡しづらくなった。 環生も最初のうちは連絡をくれたけど、仕事や恋人で手いっぱいなのか、だんだん疎遠になっていった。 環生のいない味気ない毎日を送っていたある日の事。 仕事で本社に電話をした時、環生が長期休暇を取っていると知った。 真面目で、有休を使うのも気を使っていた環生がまとめて休むなんて何かあるに違いない。 環生が復帰する頃に何日か支社方面へ行けるよう、出張の予定を入れた。 どんな理由で休職しているかもわからないから、いきなり『会おう』と連絡するのは気が引けた。 偶然を装って環生に会おうと思った。 計画通り環生を飲みに誘った。 あらかじめリサーチしておいたダイニングバーに連れて行った。 環生の近況には驚いたけど、環生は今フリーの身。 気持ちを伝える千載一遇のチャンスだと思った。 環生が会社を辞めたら偶然を装って会う事もできない。 一緒に住んでいる男のものになる前に、俺のものにしてしまいたい。 もう二度とあんな思いをするのは嫌だった。 でも、ダイニングバーで正式に告白する勇気はなかった。 もし断られたら、そこで環生とはさよならだから。 環生も俺に対して好意的だったから、思い切ってホテルに誘ってみた。 「俺も…悟に抱かれたい…」 小さな声で恥ずかしそうに言った。 環生が俺を受け入れてくれた。 それだけで胸が熱くなった。 スマートにリードしようと思っていたのに、早く環生を抱きたい欲求に負けて、激しめに唇を求めてしまった。 日替わりで誰かを抱いていた当時の俺が知ったら笑うだろう。 環生が好きすぎて、最初から余裕なんてない。 でも、環生は何でも卒なくこなして余裕がある俺を尊敬してくれている。 何があっても格好悪いところは見せたくない。 環生からも触れて欲しくて、その手を左胸に導いた。 「本当に触っても…いいの?」 「いいよ」 俺は緊張や荒ぶる欲望を必死に隠しながら優しく微笑んだ。

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