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第10章 第22話side.恭一

〜side.恭一(きょういち)〜 マスカットを食べ進める環生(たまき)さんを見つめながら、どう気持ちを伝えればいいかを考える。 きっと環生さんを驚かせてしまうから。 本当はもっとゆっくり、少しずつ関係を深めていくつもりだったけれど仕方ない。 焦ってはいけないとわかっていても、立候補だけはしておきたい。 環生さんに『推しのフードコーディネーター』ではなく、『恋人候補』の1人として意識して欲しかった。 久しぶりに感じる胸の鼓動。 こんな風に誰かに恋をしたのはいつぶりだろうか…。 この仕事が軌道に乗って、メディアへの露出が増えてからは、特定の方と必要以上に親しくするのは避けるようにしていた。 特にファンの方には気をつかった。 相手の方に誤解をさせてしまうのも申し訳ないし、平等に接しないのは他のファンの方に失礼だと感じていたから。 仕事の関係者で素敵だと思う方もいたけれど、あらゆるリスクを考えて、先へ進もうとはしなかった。 そんな毎日を過ごすうちに、いつからか周囲の人と距離を取るようになり、恋をする機会も意欲も失っていった。 その分、仕事に集中できるようになり、望み通りの成果が出せるようになった。 でも、仕事を終えて真っ暗な部屋へ帰ると感じる孤独。 家族や大切な人と囲む温かい食卓を演出する仕事をしているのに、私には家族も大切な人もいない。 次第に、自分のしている事は『家族への憧れ』を形にしているだけで、本当は温かみのない『偽り』ではないかと思い始めるようになった。 孤独な現実と、自分が手掛けた作品のギャップに違和感を感じる事もあったし、それが苦しいと感じる瞬間もあった。 そんな中で知り合った環生さん。 初対面の日は素直で可愛らしい方だな…程度の気持ちだった。 他の方と同じ、ファンの1人だった。 その後、環生さんとの接点もなかったし、何かの瞬間に思い出す事もなかった。 そんな環生さんを意識するきっかけになったのは、事務所に届いた一通の手紙。 内容は先日のお礼と私を気づかう言葉。 私に会えた喜びの後に、『香川(かがわ)さんの活躍も楽しみですが、しっかり休息も取って無理だけはしないでくださいね。香川さんが幸せでいてくださるなら、俺はそれだけで幸せです。香川さんの幸せのためなら、例えSNSの更新が止まってしまっても、テレビでお見かけする機会がなくなってもかまいません。でも、待つ事を許していただけるならいくらでも待ちます』と綴られていた。 内容がスッと心に染みた。 何度も推敲して書いてくれたであろう丁寧な文章。 人柄が感じられる優しい言葉選び。 私のSNSの更新や活動を心待ちにしてくれているはずなのに、私の心や体を一番に思う優しい心。 何があっても待っていてくれるという強い思い。 常に新しいものを求める関係者や、多くのファンとは違う何かを感じた。 会った時はあんなに遠慮がちな印象だったのに、手紙には私への熱い思いがあふれていた。 もっと環生さんの事が知りたくなった。 環生さんなら、ありのままの私を受け入れてくれるかも知れない。 私の迷いに寄り添ってくれるかも知れない。 『特定のファンの方とプライベートでは会わない』と決めていたはずなのに、どうしても環生さんに会いたくなった。 念のため事務所に『プライベートで会いたい人がいる』と伝えると、私に一任するとの事だった。 麻斗(あさと)さんに連絡先を聞いて、環生さんをチーズケーキデートに誘った。 最初は私を特別視して緊張していた環生さん。 途中で私の意図を察した環生さんは、私を1人の人間として扱ってくれた。 それはとても心地よかった。 ケーキを選ぶキラキラした瞳も、美味しそうにケーキを食べる様子も、人懐っこい笑顔も…全てが愛らしかった。 さすがに悩みを打ち明ける事はしなかったけれど、環生さんは私の話を楽しそうに聞いてくれた。 環生さんを見ているだけで、渇いていた心が潤っていくのを感じた。 話し相手がいる事の喜びや、自分を受け入れてくれる人の温かさを知った。 心の疲れが癒えた私は、欲張りになった。 もっとゆっくり環生さんと過ごして安らぎを感じたいと思うようになった。 環生さんと自然に仲良くなれそうなデートスポットを選びに選び、念入りなシュミレーションを繰り返して今日を迎えた。 長い間、恋をしていなかった私は、久しぶりのときめきに随分と舞い上がっているように思う。 環生さんも私と同じ気持ちでいてくれると思い込む程に。 環生さんが自分以外の誰かの隣にいる姿なんて全く想像していなかった。 「香川さん…」 「はい、どうしましたか?」 「…食べてるところ、そんなにずっと見られたら…恥ずかしいです…」 「あぁすみません、つい…」 頬を染める環生さんに謝ると、環生さんは小さな声で『違うんです…』と言った。 「俺…香川さんとおしゃべりしながら一緒に食べたいです…」 環生さんはそう言って恥ずかしそうに巨峰の乗ったボウルを差し出した。

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