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第10章 第24話
「いいですか、漕ぎますよ」
「は、はい…」
2人で協力してボートを漕ぎ出す。
香川 さんは背が高くて脚も長いから座席が狭そう。
他のボートを避けながら、空いている池の隅の方を目指して進む。
香川さんに慣れたと思ってたけど、全然慣れてなかった。
だって車よりも距離が近い。
それを意識したら急に心臓が騒ぎ始めた。
「こうしてゆっくり過ごすのは久しぶりです」
リラックスした様子の香川さん。
池の上で香川さんと2人きり。
今、この香川さんを知ってるのは世界でただ1人、俺だけなんだ…。
「お仕事…大変なんですか?」
「…そうですね…。好きでこの仕事を始めたはずなんですが、最近は苦しいと思う瞬間も増えました」
もしかして香川さん…愚痴をこぼしてるのかな…。
ここなら誰に聞かれる心配もないから…?
仕事の愚痴一つこぼすのも場所を選ばなくちゃいけないなんて、窮屈で大変そう…。
「…不謹慎かも知れませんが…このままずっと環生 さんと2人でボートの上にいられたら…と思います」
香川さんの切ない表情。
聞いた事のない弱気な声。
俺の心臓がドキン!と音を立てた。
それって…仕事から逃げたいだけ?
それとも…俺と一緒にいたいって思ってくれてるの…?
詳しく聞きたかったけど、それを聞くのは今じゃない気がしたし、香川さんといられるなら理由なんてどうでもよかった。
「お、俺でよかったら…香川さんが降りたいって思うまでずっと一緒にボートにいます」
「…ありがとうございます、環生さん。…いけませんね、環生さんの前ではきちんとしていたいのに」
情けないです…と少し悲しそう。
「きちんとしてなくていいです。今、俺の目の前にいるのはプライベートの香川さんです。香川さんが完璧じゃなくても俺は…」
『香川さんが好きです』
勢いで言ってしまいそうになったけど、グッと飲み込んだ。
ファンの俺がそれを言ったら迷惑になると思ったから。
少しだけ表情が和らいだ香川さん。
それからしばらくは黙って遠くを見つめていた。
その横顔を見ているだけで泣きそうになった。
きっと言葉にはしてない、色々な事を我慢してるんだろうな…と思ったから。
香川さんの手を握ってあげたい。
俺が側にいます…って言って抱きしめてあげたい。
俺が辛い時に寄り添ってくれる保科 家の皆みたいに、俺も何かしたい。
不思議な感覚だった。
今度好きになる人には、たくさん好きって言って欲しい。
2人きりの時はずっと抱きしめていて欲しいし、キスもして欲しい。
ワガママも叶えて欲しいし、甘えさせて欲しい。
ずっとそう思ってたのに、好きになった人にたくさん好きって言いたくなった。
俺の腕の中で安心して欲しい。
たくさんキスをして、ワガママを叶えて甘えさせてあげたい。
やっぱり我慢できない。
香川さんに想いを伝えよう。
例えフラれて2度と会えなくなってもいい。
香川さんに『1人じゃないです』って伝えたい。
そっと香川さんに手を伸ばしかけた時だった。
「ねぇ、あれ香川恭一 じゃない?」
若い女性の声がして、一気に現実に引き戻された。
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