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第3話
腰が異様にだるい。
今朝は早めに起きてラブホテルから自宅に一度帰宅した。そのままベッドに倒れ込んで寝ていたかったが、休日では無いのだから叶わない。
まだ勤務を初めて二時間しか経っていなかったが、下半身の重さに歯を食いしばりながら新しく入荷した本を並べていた。
あれだけ拒否していたくせに、セックスに雪崩込んで煽ったのは汐月だ。
半ばヤケになっていたのは否めないが、久し振りに若さに振り回された。尻にはまだ違和感はあるし、やたらと足を開かされたお陰で股関節が悲鳴をあげていたが、達成感のようなものはある。
(...とはゆーても!立ったりしゃがんだりはやっぱり辛いわ...)
今日が日曜で良かったと思いつつ、辺りを見渡した。
休日は混み出すのが遅く、午前中は静かだ。
汐月はコミックスが並ぶコーナーの隅に移動して、客の姿がないことを確認するとゆっくりとしゃがみ込んだ。
(一分だけ休憩...)
誰かに見られてもサボっていると思われないように、平積みしている本の下のストックが入った引き出しを開けて探している振りをした。
(仲くんて...二十歳くらいやんな?ほんならオレと八歳差くらいになるんか...)
幼く見えるお陰で得をすることはよくある。あえて年齢不詳で通しているが、静樹には一度歳上だろうと言われたことがあった。
(そろそろスキンケアとかした方がええんかな。でもニキビとかもほとんどできひんかったしな〜。ヒゲもあんまり生えへんし)
学生時代には、薄い体毛のせいで同級生達によくからかわれたものだ。
汐月は相変わらずつるんとした腕を撫でたあと、ストックの引き出しを閉めた。
(ゆっくり立たんとヤバい...)
「おい、そこの店員さんよ」
大きな声で呼びかけられ、思わず背筋を伸ばしてしまった。
「...っ、は、はいっ」
ずんと響いた腰を庇いながら声を掛けてきた男性客に歩み寄った。
黒いTシャツ一枚に黒いズボンの男は、汐月がかなり見上げないと視線が合わない程の長身だった。
「この予約表に見覚えはあるか?」
鋭い瞳を細めてそう言われ、これはクレームだと判断した。
しかも、店長がレジにいるはずなのにわざわざ作業中の汐月に声を掛けるということは、汐月個人に対してのクレームのはずだ。
「...お預かりします」
突然大声で責められるのかもしれない。過去にも経験した事がある最悪の状態を予想しつつ渡された紙を確認すると、それは汐月に電話番号の書いた紙を渡してきた客の予約票だった。
(官能小説予約野郎の名前...)
「...いつもご利用頂いているお客様の予約票ですね。これもオレ...、私が承りました」
大きくなる心臓の音に素直に告げると、どうするつもりなんだ。と言われた。
「...は...、あの、こちらの商品は納品が来週なので、今すぐにご用意は出来なくて...」
「そんな事は言ってねぇよ。あんた、コイツから告られたろ?」
「.......こく、...あの、もしかして、ご用事はその方がオレに好意を抱いていることに関してですか?」
「あぁ。どうしても自分で聞きに行けねぇって言うから、俺が聞きに来た。返事をしてくれ。俺が責任を持って伝えるから」
思い切り大声を出してアホかと罵ってやりたい気持ちを、全力で抑え込んだ。
落ち着いて見てみれば、相手は汐月より歳上のいい大人だ。
少し考えれば分かるだろう状況に、怒りで体温が上がってきた。
汐月はなるべく小声で話せるように深呼吸したあと、長身の男を睨みあげた。
「あんたなぁ。ええ加減にしろや。オレは今勤務中やねん。いくら常連客相手でも仕事中にプライベートな事には答えられへんの当たり前やろが」
唸るように言った汐月の訛りに驚いたのか、鋭くしていた目が徐々に見開かれていった。
「どうしても返事が聞きたいんやったら、十九時に店の前に来ぃや」
男の胸元に予約票の紙を押し付けると、足早にバックヤードに入った。
壁にもたれかかり、そのままずるずるとしゃがみ込むと膝を抱き寄せて額をつけた。
(やっ.....てもうた!間違ったことはゆーてへんけど!もしかして言い過ぎ?キレ過ぎたかもしれん!いやでも!)
「あれ?元宮さん、何してるの?」
我に返り顔を上げると、昼から出勤になっていた仲が立っていた。
「あ、わかった。俺とのセックスのせいだよね。でもアレはもっともっと、ってせがんだ元宮さんが悪いんだからさ」
元はと言えば、酔った汐月をホテルに連れ込んだ仲も悪い。
無理矢理に自分とは別の所に原因を擦り付けた汐月は、目の前にある仲のふくらはぎを思い切り拳で殴りつけてやった。
黒澤丈晃には、酷く偏った好みがある。
それはある意味性癖のようなもので、中学生の頃に関東へと引っ越してからはっきりと自覚したものだった。
引っ越す前、丈晃の家族と隣に住む元宮という家族とはとても仲が良かった。
丈晃の記憶にあるのは、仲が良かったのその家の姉弟だ。
丈晃の一つ歳下がその家の姉で、弟の方は丈晃より五つか六つは下だった。
姉弟はとてもよく似た容姿をしていて、目が大きく可愛らしかった。特に弟の方は小さな頃からクルクルとした巻き毛のようなクセのある髪をしていて、大きな瞳と相まって人形のように可愛らしかったのだ。
歳は離れていたが、彼は丈晃を兄のように慕ってくれた。ほぼ毎週末泊まりに来て、ゲームでよく遊んだ記憶がある。
たけちゃん。と彼に呼ばれると、愛しくてどんな我儘も聞いてやりたくなってしまい、実際に甘やかした自覚もあった。
元宮家の彼の母に、「こんなにゆーこと聞かへん子にしたんはたけちゃんやで。責任とって欲しいわ」と、よく言われていた。
そんな彼と引っ越しで離れるのは本当に辛かった。
丈晃はひとりっ子だっただけに、引っ越しが決まったと両親に聞かされた夜は、ベッドの中で涙を流したほどだ。
それでも、別れの時は来る。
辛い別れの後に丈晃に訪れたのは、離れた可愛い弟への感情が行き過ぎたものだという自覚だった。
小学二年生の少年に向けて抱く感情ではない。子供の丈晃にもそれは理解出来た。
相手は幼い子供で、しかも男の子だ。
ダメならば、消せばいい。
刺激をせずに見えない所に閉じ込めておけば、きっと全部忘れてしまえる。
奥へ、奥へ。底へ、底へ。
そして小さく固く縮んだなら、二度と思い出さない場所へ捨ててしまえばいい。
ダメなんだ。ならば消してしまおう。
勤務を終えて帰り支度をした汐月がバックヤードから出てくると、遅番シフトの仲がレジカウンターの中から声を掛けてきた。
「なんやねん」
「元宮さん、明日休みだよね。あのバーに行くなら俺も後で行っていい?」
「行かへん。用事あるし」
「え?なに、なんの用事?」
カウンター越しに顔を寄せてきた仲の額を叩くと、気合を入れて睨んだ。
「仲くんには関係あらへんことやし、覚えときや。もう二度とプライベートで仲くんとは約束せえへん。ほんなら、お疲れ様。お先に」
「えっ、それはないよ、元宮さん!」
仲の声をかき消すように大きな声で他のスタッフにお疲れ様でしたと声をかけた汐月は、さっさと店を出た。
自動扉を出たが、店の前にあの長身の男の姿がない。
辺りを見渡すと、店の隣にあるコンビニの前にいた。
ガードレールに軽く腰掛けている男は、何故か呆けた間抜けな顔でまだ明るい夜空を見上げている。
(なんや...ちょっとヤバい奴か?)
人の目のない所で、と考えていたが、突然暴力を振るわれでもしたら困る。
「あの、お待たせしました」
「あ、あぁ。お疲れ様」
こちらに顔を向けた男は、優しく目を細めていた。
声をかけられた時とは印象が違う気がして、人違いだったかと感じてしまう。
「ちょっと腹が減ったからさ、飯でも食いながら話さねぇか?」
人目のある店の中の方が危険は少ないだろう。
汐月が了承すると、駅前にあるお好み焼き屋に連れて行かれた。
店の中に入ると香ばしいソースの匂いが充満していて、食欲がなかったはずの汐月の腹が空腹を訴えた。
「俺はビールとお好み焼き」
「お好み焼きとご飯と烏龍茶で」
注文を終えると、グラスの水を飲む汐月を見ながらにやにやと笑う男に気がついた。
「...なんですか」
「いや、やっぱりお好み焼きっておかずだから白飯がいるのか?」
飽きる程過去に答えてきた質問だったが、それには答えず汐月から切り出した。
「オレはそんな話ししに来たんちゃうんで。あの、お友達なんやったらゆーてもらえます?正直、迷惑なんで」
入った店は店側が商品を焼き上げて提供する店だった。
カウンター席だと店主が調理するのを目の前の鉄板で見れるようだ。
「ん〜。あのさ、さっきの話は全部忘れて貰えねぇか」
男は黒い前髪をかきあげてそう言うと、何故か楽しそうに口元だけで笑っている。
「.....は?忘れろて。仕事中に問い詰めてきたんは、あんたやろ?なにゆーてんの?」
返事をしろと詰め寄ってきたかと思えば、忘れろと言うその身勝手さに再び怒りが込み上げてきた。
「お待たせしました」
先に運ばれてきたビールのジョッキと烏龍茶を見た汐月は、男が手を伸ばすより先にジョッキを奪った。
「おい、」
止められる前に口をつけて半分程飲んだあと、乱暴にテーブルに置いた。
「説明せぇや。ほんまにムカつくわ、あんた」
もう手をあげられたとしても、倍に返してやればいい。投げやりな気持ちでテーブルに乗り上がり睨みつけてやると、男は弛んだ表情で嬉しそうに笑った。
「な、なんやねんな...」
「いや、あんた可愛いよな」
突然褒められ、どう反応すればいいのか分からない。
「はは、いや、すまねぇ。あいつが惚れるのも無理ねぇな。説明だけ聞いてくれるか?」
男の声は低く柔らかい。店内の酔った客達の声が煩いのに、その低音はきちんと汐月の耳に届いていた。
「俺はさ、ここから歩いて十五分くらいのところにある工場に勤務してんだ。あんたに告ったのは俺の職場仲間でな。まぁ、後輩になるか」
男はそこまで話すと、半分に減ってしまったジョッキを傾けた。
(あ、しまった。間接キスやん)
その場に不似合いな事を考えると、飲んだアルコールのせいか心臓が揺れた。
「去年入社して入ってきたんだがな。最近よくあるコミュ障っての?なかなか社員に馴染めなくてな。時々声掛けたりして、やっと少し話せる様になった時に」
話の途中で、焼きあがったお好み焼きが運ばれてきた。
男は手で早く食べろと促してきた。かなりの空腹を感じていた汐月は、割り箸を持つと手を合わせて軽く頭を下げ、心の中で、いただきます。と呟いて食べ始めた。
「あいつはゲームやらラノベってのが好きらしくてな。俺も本は読むほうだから、その辺で少し距離が縮まったんだ」
口に入れる前に何度か息を吹きかけて冷ましたが、口に入れたお好み焼きはかなり熱かった。だが、香ばしいソースがたまらなく美味しくて、艶のある白飯も口に入れた。
「話してるうちに行きつけの本屋の話になってよ。俺は家が工場より向こうなんだ。で、あいつは工場からお前の本屋を通って駅の向こう。俺の自宅の方は本屋がなくてな。だから休日に纏めて買いに来ることが多かったが、あいつが代わりに買って来ましょうかって提案してくれたんだ」
男は一口お好み焼きを食べると、熱そうにして慌ててビールで流し込んでいた。
「俺が読むのは官能小説ばっかだからかまわねぇって言ったんだけどな。でも、好きな作品は早く読みたいでしょうって言ってくれたんだ」
その言葉を聞いた汐月は、口の動きを止めずに顔を上げて男を見た。
男はひと通り話し終わったと思ったのか、汐月の視線に構わずお好み焼きを食べ始めた。食べ始めると、あっという間だった。一口が大きいのか、熱そうにしていた割にはあっさり完食してしまった。
「...ほんなら、あのエロ小説予約してたんて、あのお客さんやなくてあんたやったん?」
「そーいうことだな。あ、ビール。ジョッキ二つな」
「そういうことて...」
あの若さで官能小説をいつも予約して引取りに来るのは、汐月への当てつけのようなものだと思っていたのだ。下劣な上司が女子社員にセクハラをするのと同じ部類の行為だと思い込んでいた。
男の話が事実ならば、あの作業着の青年は純粋に汐月が好きで、毎回汐月の接客を受けていただけだったのか。
「まぁ、男相手に返事を聞かせろって言うのもおかしいよな。迷惑かけちまってすまねぇ」
新しいビールのひとつは汐月の方へ置かれた。
黙ってまた半分を一気に飲むと、やるねぇ。と男が言った。
「でもさ、あんたに関西弁で凄まれるまで、女の子だと思ってたんだよ。通りであいつもなかなか言わねぇわけだな」
「...またそれか。はいはい、オレは可愛いからしゃーないよな。女の子に間違えられるんはしょっちゅうやから慣れてんで」
箸でお好み焼きを切ろうとしたが上手くいかない。どうやら、空きっ腹にビールを流し込んだのが原因のようだ。
(うぉ、やばい...。急にまわってきたやん)
ゆらゆらとし始めた視界の中で、目の前の男がじっと汐月を見つめていることに気がついた。
「...なんやの」
「いや、マジで可愛いからさ」
「.....ふぅん。あんたもよう見たら結構イケてるんちゃう?その顎髭剃ったらもっと...カッコええと思うで」
「これがいいって評判なんだけどな」
男は笑いながら顎髭を撫でていた。男らしい体格や顔つきは、羨ましい。毎日剃ることも必要のない程度にしか生えない汐月に比べれば、その顎髭も憧れでしかない。
「あれやろ、キャバとかでお髭触らせてぇ〜とか、お姉ちゃんらに言われるんやろ」
「はは、よくわかったな」
「はっ、どいつもこいつもそれやもんな。オレには女の良さなんか分からへん」
「...ん?」
箸を置いた汐月はジョッキを持ち、それを男の前に差し出した。
「女は嫌いやってゆーたんや。女に擦り寄られたらちんこなんか縮みあがるわ」
言い終わってジョッキの中身を飲み干した汐月は、大きな声でお代わりを注文した。
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