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第4話
「んぁ」
寝惚けて出た自分の声に目が覚めた。
薄目の視界に広がるのは薄く茶色い天井。
最近あまり見かけていなかった和室の照明は、傘のある物で紐が垂れている。
実家にいた頃の汐月の部屋と同じだ。何となく懐かしいな。そこまで考えたところで、ここはどこだと目を見開いた。
またやってしまったのかとうんざしりしつつ、静かに自分の体に触れてみた。
服は着ているようだ。一昨日酒に酔って仲にしてやられた所なのに、懲りてない自分に嫌気がさす。
(とりあえず...ヤったんやないんやな。ほんなら、ここどこやねん)
ゆっくりと身体を起こしたが、頭を浮かせた時点で二日酔いの頭痛が音を立てていた。
「...っ、は...え?」
天井から受けた印象通り、そこは和室だった。
和室といえば畳だが、汐月が寝ていたその部屋の畳は散らかったものに隠されている。
汐月が寝ていた布団も脱ぎ散らかされた服や本に囲まれていて、ゴミ山の中で目覚めたような気分だった。
「きたな!なに、ゴミ部屋?」
慌てて立ち上がると、殴られたように頭痛が酷くなって息を詰めた。
「なんだ、起きたのか...ふぁ...」
立ち上がった汐月の足元で動いたのは、顎髭の男だった。
男は欠伸をしながらのっそりと立ち上がると、汐月の頭に手を乗せた。
「水と薬持ってきてやるから、座ってろ」
「え...」
この汚部屋の主は顎髭の男らしい。
すぐに戻ってきた男は鎮痛剤と水を手にしていたが、汐月は水だけでいいと断った。
「あぁ、そうか。なにか食わなきゃ飲めねぇよな。食えるものあったかな」
「ええから、どうせ朝は食べへんねん。じ、自分ちに帰ってからちゃんと薬飲むし...あ、ありがとう...」
布団の上に正座をしていた汐月の前に座った男は、煙草をくわえて笑った。
「なんだ、急に汐らしくなって」
「.....オレ昨日めっちゃ酔うてしもたやろ。その...見ず知らずの人の家で、申し訳ない」
いい歳をした大人が。と、昨夜は目の前の男を散々馬鹿にしたくせに、自分こそ酔って他人に迷惑をかけている。
「あの、吐いたりとかして汚してへんかな。なんかやらかしてたんやったら謝りたいんやけど」
冷たい水を飲んだせいか、思考がクリアになってきた。酒にはあまり強くないとわかっていてあんな飲み方をした自分が悪い。何か迷惑をかけたのなら、きちんと誠意を見せるべきだ。
男は煙草に火をつけると、煙を吐き出しながら汐月を見つめていた。
「...?」
「見ず知らずの他人...か」
「あ、よう考えたらまだ名前も聞いてへん!あの、オレは」
「元宮汐月。だろ。苗字は後輩から聞いてたけどな」
「え?...なんでオレの名前...」
全く記憶にはないが、もしかして過去に寝た相手だっただろうか。だが、汐月の好みは清潔感のあるインテリタイプだ。顎髭の男のように、むさ苦しい外見の男は好みじゃない。
「黒澤丈晃」
その名前の響きを聞いたのは何年ぶりだろう。
諦めて記憶の中から放り出したもののはずだったが、それよりも、目の前の男がその名を口にした事実に固まってしまった。
「...な、なんて...?」
「まぁ、覚えちゃいねぇだろうな。昔お前ん家の隣に住んでてさ。お前からたけちゃんって呼ばれてた。...忘れたか」
忘れるわけが無い。つい数日前も、彼をたけちゃんと呼び親しんでいた幸せな日々の夢を見たところだ。
あれは、間違いなく汐月の初恋なのだから。
「...え、たけちゃん...?ほ、ほんまに...?」
思わず身を乗り出して聞き直すと、大きな手が汐月の後頭部を包み抱き寄せられた。
「...お前、やっぱすげぇ可愛いな」
黒いTシャツが頬に触れ、煙草の匂いと彼自身の香りが汐月を落ち着かなくさせた。
「ちょ、ま、待って、ほんまにたけちゃん?マジで?」
「嘘は言わねぇよ」
彼の胸元から顔を上げると、顎を掴まれた。
真っ黒な瞳が近づけられ、汐月は思わずグラスを持った手で彼の顔を押してしまった。
「ぶっ」
「あ!ごめん、思わずっ」
水がまだ残っていたせいで、布団に零れてしまった。
「いい。構わねぇからキスさせろよ」
「は、はぁ?何ゆーてんの?意味わからん、や、嫌やってゆーてるやろ!」
手にしていたグラスを取り上げられ、詰め寄ってくる丈晃に布団に押し倒されてしまったが、今度は全力で彼の顔を手で押した。
「待ちぃや!あんたがたけちゃんやってだけでも驚きやのに、なんでそーいうことになるねん!」
「は?お前が言ったんじゃねぇか。理想は初恋のお兄ちゃんだって。俺の初恋もお前だからな。だから改めてよろしくやろうと思ってんだけど」
「アホォ!色々飛び越しておかしいわ!とにかくどけや!離れろ、エロ髭!」
汐月より遥かに体躯のいい丈晃の下で暴れて抵抗すると、仕方ないといった表情で解放された。
彼の下から逃げ出した汐月は、座ったまま後ずさり壁に背をつけた。
「...わかった。もうしねぇから、一緒に朝飯にしねぇか」
宥めるように聞こえたのは優しい声だったが、汐月は立ち上がると視界の隅に見つけた鞄を手に男の家を飛び出した。
せっかくの休日は二日酔いに唸って終わってしまった。
唸りながらもしっかりと体を休めたお陰で、今朝はスッキリと目覚めることが出来たが、精神的にはまいったままだ。
「うぅわ。眉間のシワ凄いなぁ」
コミックスのシュリンク作業をしていた汐月の前に、仲が顔を出した。
汐月の眉間の皺を伸ばすように指で擦られたが、その手を払い除けた。
「気安く触らんといて」
「機嫌悪いね。お昼ご馳走しようか?」
「...いらん」
低い声で返事をした事で不機嫌さは伝わったようだ。仲はその後余計なことは言わずに離れていった。
昨日の朝に受けた衝撃は、まだ汐月の頭の中を乱したままだ。
ビールに酔った自分は、洗いざらい話してしまったらしい。ずっと胸に秘めていた幸せな初恋の思い出を、よりによってその本人に。
穴があったら入りたいような羞恥もあるが、汐月の中ではもう一つ衝撃を受けた事がある。
それは、引越しで別れた当時、すらりと背が高く清潔感のあった純朴な彼が、今現在全く正反対の印象であるという事だ。
綺麗に整理整頓された勉強机。きちんと並べられた本棚の本達。隣にいる汐月の事を忘れるほど本の世界に没頭する、丈晃の横顔。
(なんっ...にもない!たけちゃんの面影丸っきりあらへんやんか!あのたけちゃんが、あんなに汚い部屋に住んでるとか...有り得へん...)
イメージが両極端なのに、本人だと言われても認められない。
ただのクラスメイトとの再会なら良かった。久し振りだな、老けたんじゃないか。そんな会話だけで現在の相手を正面から見れただろう。けれど、汐月にとっての丈晃は特別だった。
幼い頃の夢に幸福感を与えられる程、黒澤丈晃という男は、大切なものだった。
(しかもなんなん?あんな風に軽々しく...。久しぶりに会ったからヤっとくかみたいな...。最低や...ほんま最低...!)
脳内で何度繰り返し罵詈雑言を浴びせたか分からない。そして、また過去の彼の姿を思い出す度にやたらと胸が痛くなるのだ。
本当に、本当に、彼の事が好きだった。
汐月にとっての初恋は、間違いなく彼と過ごした時間だ。
(...台無しにされた気分やわ...)
同じ事をぐるぐると考えすぎてしまったせいか、夕方に勤務を終える頃には体力を使い果たしてしまっていた。
店長と業務についての話を少しした後、ふらふらとした足取りで帰り支度をした汐月は、何も考えずに自宅を目指して歩いた。
自宅にはまともな食料はない。だが、さほど腹も減らず食欲もない。店に入って買い物をする気力もない汐月は、曇天を見上げてため息をついた。
今日はさほど気温は高くないが、湿度が半袖の腕にまとわりついている。
(...雨...降りそうやなぁ...)
前方を見ていなかったせいで、信号待ちで足を止めたスーツの背中に顔からぶつかってしまった。
「ぶはっ、は、すんません!」
反射的に謝罪すると、振り向いた男性からクスクスと笑われてしまった。
「汐月くん、口開いたまま歩いてると虫が入るよ」
まだ薄く明るい街中で彼の姿を見るのは珍しい。
汐月は艶のある優しい微笑みにつられて、思わず笑顔になった。
「圭介さん!」
「...顔色が良くないね。何かあった?」
「え、あ、」
「...待って、こっちに」
長い腕が汐月の背中を抱いて、動き始めた人混みから出してくれた。
「仕事終わったところかな」
「うん、圭介さんも?」
「俺は今からが忙しくなる時間だよ」
彼の本職が何かを知る人物は汐月の周囲にはいない。知っているのは、汐月の行きつけであるゲイバーのオーナーであるという事だけだ。
夜の繁華街で彼を見かけない場所はなく、彼を知らない者も少ない。同じ様に耳にする名前はあるが、特に彼と、彼の友人らしい黒髪の男性は有名だった。
「あ〜、圭介さんはモテるもんね」
からかうように笑って見せたのだが、しなやかで長い指に頬を撫でられてしまった。
「...汐月くんこそ。今夜はもう予定はあるの?」
口元が僅かに動くのを見るだけで、見蕩れてしまうような色気がある。
汐月の肌が、微かに震えた。
「ない...」
「なら、おいで」
人混みの中でも、彼は人目を気にせずに汐月の肩を抱いて歩き出した。
密着する彼からは、甘くて清潔な香りがする。声までが甘く、聞いているだけでうっとりとしてしまう程だ。
柔らかな髪は湿気を含んだ風に吹かれても、さらりと揺れている。
(...めっちゃイケメン...カッコええわぁ...)
初恋の相手である丈晃も、きっと彼の様な大人になっているんだろう。圭介と初めて会った時、汐月はそう考えていた。
だから、初対面ですぐに抱いて欲しいと申し出たのだ。
彼はそんな汐月を、綺麗な瞳で見つめたあと、いいよ。と受け入れてくれた。
「汐月くん、野菜は苦手だったよね」
問われた汐月の視界にはいったのは、高級しゃぶしゃぶの店だった。
「えっ、圭介さん、オレあんまりお腹空いてへんから、」
頭に浮かんだ頼りない財布の中身に思わずそう言ったが、相手は伊谷圭介だ。彼は優しく微笑むと、完全個室になった広い掘りごたつの部屋に汐月をいれた。
少し遅れて入ってきた彼は、どうやら顔馴染みの店員に声をかけていたようで、汐月の負担にならない程度の量の肉と野菜を言いつけてくれた。
「ゆっくり噛んで食べるんだよ」
汐月が味わって食べている間、彼はビールを飲みながら見守ってくれていた。
「弱ってそうだから、汐月くんはお茶ね」
食後に温かいお茶を飲んでいると、向かいに座る席から伸びた手に頬を撫でられた。
「うん。マシになったね」
紳士で優しい彼に、胸がきゅんと音を立てる。
彼がゲイだと知らぬ者はいないが、繁華街で働く煌びやかな女性達は、皆彼に憧れる。
「...優しいなぁ、圭介さん」
「そりゃあ、今にも倒れそうな顔で見られて放ってはおけないよ。いつも元気で可愛いのに」
「...圭介さん...」
「食事はきちんととらなきゃね。でないといいセックスも出来ないでしょ」
おお、なるほど。と頷いた汐月は、復活してきたから。と彼の綺麗な瞳を見つめてみた。
「ごめんね。今夜はダメなんだ」
「えぇ...。ご飯食べさせてくれたからエッチもしてくれるんかと思ったのに」
「ふふ、先約があるから」
楽しそうに笑った彼は、長い指に煙草をはさんで火をつけた。
少し前から、特定の相手を作らない彼がお気に入りを見つけたという噂を聞いていた。
確実な真相を突きつけられるのが嫌で、誰も本人に問い質していないと聞いていたが、本当なのだろうか。
「.....圭介さん、恋人できたん?」
「そういう汐月くんこそ。いい人が出来たんじゃないの?」
「オレはそんなんおらんよ。圭介さんみたいな人がええんやもん。でもな、そうそうおらんねんて」
「.....なにか悩みながら歩いていたから、てっきり恋人の事でも考えてるんだと思ったけど」
吐き出される煙を見ていた汐月は、視線を手元の湯のみに落とした。
「はは、あらへんて。...ええなぁ、圭介さんに気に入られてる子」
「...どういう意味?」
「そのまんまの意味やで。圭介さんみたいに、かっこよくて優しい人に気に入られたら幸せやん」
「...は、あはは、」
お茶に口をつけようとした汐月は、声を出して笑い始めた圭介に驚いて動きを止めた。
「それはどうかな」
「...え?」
「俺に気に入られたら、後が大変になるかもしれないよ」
彼の言葉の意味が分からず黙ってしまうと、圭介は立ち上がって汐月の隣に座った。
「欲しい相手でないと、意味がないと思うよ。汐月くんが本当に欲しいのは、俺じゃないだろう?」
いつもと変わらない優しい声音なのに、どこか冷たく感じた。
「暫くは夜遊びしないできちんと夜は寝なきゃだめだよ。...いいね?」
汐月が黙って頷くと、圭介はそっと額にキスをしてくれた。
食事だけで圭介とは別れて帰宅したが、汐月の頭にはずっと彼の言葉が響いていた。
本当に欲しいなんて、そんな相手はいない。
いないのだが、以前圭介とした初恋の話ばかりが頭に浮かぶ。
初恋の相手であった丈晃を忘れられなかったのは事実だ。
だが、今まで生きてきてずっと彼のことを考えていた訳じゃない。
恋人と呼べる相手も何人かいたし、心躍らせる恋もした。唯一ではなかったはずなのに、心で何度も思い返した理想の彼ではなかったのに、どうしても引っかかっている。
叶わない初恋を、細かく砕いて飲み込んだはずなのに。
(...なんやろ...。めっちゃモヤモヤするわ)
叶わない初恋も、理想通りにはいかない人生も、汐月は知っている。
悶々としていても、また朝は来る。
だから、考えすぎるのは良くない。
ベッドで目を閉じて言い聞かせるうちに、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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