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第5話

華奢なその体のどこに吸い込まれていくんだろう。 お好み焼き屋でジョッキを傾ける彼の、上下に動く喉元を見つめていた。 眺めているだけで言葉を発さなかったのは、今しがた聞いた彼の台詞が聞き間違いであったら困ると思ったからだ。 「は〜、めっちゃ酔うてきたかも〜」 「...そりゃまぁ...ここに入っていきなり飲んでたからな。それより今...」 「なに?」 「.......もしかして、女が苦手なのか?」 女性の様な容姿をしているからなのかもしれない。わざわざ自分に期待し過ぎるなとブレーキをかけつつそう聞くと、彼は楽しそうに笑った。 「苦手なんてもんちゃうて!ゆーたやん、さっき。女になんかちんこ反応せんのやて。だってオレ、男が好きなんやもん」 可愛らしい笑顔でなんて大胆な発言を。驚くと同時に、心臓を意識してしまった。この程度のアルコールで酔うことは無い。だが、丈晃の胸は高鳴り心臓が音を大きくしていった。 後輩から名前を聞き出した時、脳裏を掠めたのは過去に消したはずの少年の姿だった。 元宮なんて、特に珍しい苗字でもない。気にし過ぎだ。思い出してどうすると自身に言い聞かせ、訪れた本屋で目にした彼には何も感じなかったのに。 彼が低い声で唸る様に話したあの独特の訛りを耳にした瞬間、確信した。 正直、出直してこいと凄まれた後は驚きから何も出来す、道端のガードレールによろよろと腰をかけて言われた時間まで呆けていた。 遠く離れた都会へと引越し、もう二度と会うことは無いと考えていた。 少年に向けて抱いてはいけないあの感情は、遠い過去に捨て去ったはずなのに。 (...なんだ、こりゃ...) 無意識にTシャツの胸元を掴むと、心臓の中から柔らかいものが溢れ出し辺り一面に浮かび上がったような感覚に陥った。色で言うならば、ピンク。軽やかさで例えるなら羽。 まるで運命の相手に巡り会えた可憐な少女のようだ。今ならば、興味のない少女漫画も共感しながら読破出来るかもしれない。 乙女チックになった頭のまま、大人になっていた彼と食事をした。ビールを飲む姿にいちいち感動したし、酔い潰れてしまった彼に、成人したんだなぁと感慨深く頷きながら自宅へと連れて帰った。 三十四歳。独身男の部屋は、天使のように愛らしい彼を寝かせるには汚すぎたが、万年床になっている布団の上にそっと横にすると、部屋の中が聖域に変化したようだった。 あの汐月が、部屋にいる。丈晃が毎日使う布団の上に横になり、頬を赤くしてすやすやと眠っている。 気持ちよさそうに寝息を立てている汐月を見つめたまま、丈晃もゆっくりとその場に体を横たえた。 ほんの数センチ先に、昔と変わらない癖毛をした可愛い彼がいる。 酔った彼は饒舌に丈晃の質問に応えてくれた。 初恋は子供の頃隣に住んでいたお兄ちゃんだったと。 優しくて格好良くて、めちゃくちゃ好きだった。 理想の男は彼しかいない。 アルコールでとろりとした瞳を丈晃に向け、そう話してくれた。 両想いだった。丈晃の気持ちと彼の気持ちは、全く同じものだった。 (.....俺のもんだ) 胸に広がる熱い感情に目を閉じ、彼が起きたら何から話そうかと無意識に笑った。 独身男には有難いことに、丈晃の勤める工場には食堂がある。 比較的規模の大きな工場なのだから当たり前かもしれないが、職場の食堂というものは安くて美味い。 ただ、残念ながら屋内での喫煙は禁止されているので、食事を終えたあとは敷地内の隅っこに申し訳程度に造られた喫煙スペースへと行くのが常だ。 正門の近くにあるそこは、丈晃の持ち場が敷地内奥にあるだけに距離があるのだが、建元に挟まれた細長い場所から見上げる空が気に入っていた。 飲料メーカーの名前が入った古いベンチがふたつ並んでいて、その前にみっつ灰皿が置かれている。こちらは煙草の名前の入ったものだが、その名前はもう読み取れないほど錆びて剥がれてしまっている。 ベンチに座ると周囲の雑草の匂いがして、子供の頃に走り回って遊んだ公園を思い出したりするのだ。 丈晃は缶コーヒーを膝に置いて、煙草に火をつけた。 今にも雨が降りそうだ。 梅雨が近づいているのだから当たり前だが、湿気を含んだ匂いは嫌いじゃない。 子供の頃は大雨に降られて濡れるのが好きだった。 よくある夏の通り雨は、子供にしてみれば遊びのうちの一つだ。 (...河川敷に遊びに行った帰りに降られたことあったなぁ) あの日は降り出した雨に慌てて汐月と河川敷を出たが、雷が酷くて幼い彼は怯えて泣いてしまったのだ。 たけちゃん、怖い。怖いから抱っこしてよ。 いつも柔らかそうな彼の癖毛が雨に濡れていて、真っ赤な目をして両手を伸ばしてきた。 まだ幼稚園児くらいだった汐月のその姿に、やたらと胸がときめいたのを記憶している。 (.....よく忘れていられたな、俺) 彼と再会するまで、他の誰とも何も無かった訳では無い。 幸せにしてやりたいと考えた相手もいるし、セックスは女性としか経験していない。 汐月以外の少年や男性に性的なものを感じた事は無かっただけに、過去の感情は完全に封じ込める事に成功したと思っていたのだ。 だが、どうやら違ったようだ。 昨日の朝、自宅から逃げる様に出て行った汐月を見送った後から彼の事しか考えていない。 「黒澤班長」 昼休憩の喫煙スペースは賑やかだ。ベンチに座れず立ったまま談笑する喫煙者の隙間を縫って、後輩が丈晃の元へと来た。 「部長からこれ。読んでおけと」 小さな声は周囲の声に消えてしまいそうだが、これでもかなり出るようになった方だ。 入社してきたすぐの頃は、俯いてぼそぼそと話していたせいで口元も見えず、会話が成立しなかった。 「おぅ、サンキュ。ほら、これやるよ」 書類を受け取り、膝にあった缶コーヒーを彼に渡した。 「え、でも」 「いいって。買ったはいいけど飲む気になんねぇんだ」 なんとなく胸がいっぱいで。なんて、頭に浮かべて少し申し訳ない気持ちになった。 「戻って飲めよ。煙いだろ」 後輩である有坂玲(れい)は煙草を吸わない。 最近の若者は吸わない者が多い様で、狭い喫煙所を賑やかにしているのはパッと見てオジサンしかいない。 「いえ、いただきます」 有坂はプルタブを音を立てて開け、ベンチの端に座る丈晃の隣でしゃがんだ。 「...あのさぁ、有坂」 「はい」 「...え〜、あの本屋の店員の事なんだけどよ」 「気持ち悪いって言われたんでしょ」 空から有坂に視線を移すと、両手で缶を持ち俯いていた。 口数も少なく表情も乏しい有坂だが、顔の作りは悪くないと思う。一見すると地味だが、テレビでよく見るアイドルグループの誰それに似た綺麗な目をしているのだ。 「気持ち悪いは言われてねぇよ。困るとは...言ってたけどな」 迷惑だとは言っていたが、慣れていると汐月は話していた。 まぁ、仕方ないだろう。あの可愛さでは当然だ。 「でしょう。だから、無意味なことしなくていいって言ったんです。俺なんか記憶に留めておくのも無駄なんだから」 「いや、だからなんでお前はそこまで自分を卑下するんだよ」 「...黒澤さんにはわかりません。そもそも...元宮さんは男の人だし」 小さな声が更に縮んでしまう。体を丸めるように肩を竦めた有坂に、丈晃は煙草の火を消して大きな音を出して手を合わせた。 「それなんだけどよ、すまねぇ!有坂!」 声も大きかったせいで、有坂が驚いた目をしてこちらを向いた。 「アイツさ、俺の初恋の相手なんだよ。悪いけど、お前にはやれねぇわ」 手を叩いて音を出したことで注目が集まっていたらしく、丈晃の言葉をその場の従業員達が聞いてしまっていた。 「なんだ、なんだ!黒澤、後輩の女横取りかよ」 「黒澤が相手だと分が悪いよなぁ。諦めな、兄ちゃん」 煙草を咥えたままの中年連中に慰められ始めた有坂は、やたらと叩かれる背中や肩を痛いと眉を顰めている。 「んで、どこのキャバ嬢だよ、黒澤」 「あれだろ!ユキナちゃんだろ!なんでこんな髭生やしたオッサンがモテるんだろうなぁ」 話す場所がまずかった。 丈晃は慌てて喫煙者たちの輪の中から後輩を救い出すと、持ち場へと戻る道のりで運命の再会を果たしたことを話して聞かせた。 「ってことでさ、汐月をお前とくっつけるわけにはいかねぇんだ」 「.....納得できません」 足を止めた有坂に気がついて丈晃も立ち止まった。 「ん?」 「黒澤さんの話の通りなら、元宮さんはまだ黒澤さんを受け入れてないですよね」 ありのままを話すのは逆効果だったようだ。痛い所を突かれてしまい、丈晃は顎髭を撫でた。 「...時間の問題だけどな」 「それでも、今の元宮さんを先に見つけたのは俺です」 有坂は真っ直ぐに丈晃を見ていた。 少し離れていたが、仕事の話以外で目を逸らさないのは初めてだった。 「お、俺...、俺の方が先に好きになった」 「早いか遅いかなら、俺のが早いだろ」 「黒澤さんのは...っ、子供の頃でしょう?今の元宮さんを好きになったのは...俺の方が先です...っ」 まるで一人のヒロインを取り合うライバルの様だ。そんなふうに考えると、何故か胸が騒ぎ始めた。 「なるほどな、そう言われてみりゃ、そうかもな。で?どうするんだ?」 明らかにこの現状が楽しいと感じてしまっている。 「ま、負けませんっ。俺の方が、今の元宮さんのいろんな情報握ってるんだ...」 「あ?情報?なんだよ、それ」 聞き捨てならない言葉に眉を寄せると、早足で歩き始めた有坂は丈晃を追い越していった。 今日は人気のあるコミックスが複数発売される日だ。 開店直後から割と忙しく、レジもふたつ稼働したままで汐月も忙しなく手を動かせていた。 淡々とこなしていたが隣のレジを担当する仲のやる気のない声に気がついた。 客を相手に気の抜けた言い方をしている。 「ありがとうございました」 列が途切れて隣を見ると、向こうも最後の客だった。 「ありがとうございました〜」 伸びた語尾が許せなかった汐月は、距離を詰めて仲に近寄った。 「おい。やる気ないんやったら早退したらどないや。さっきから気ぃ抜けた声で適当にしとるやろ」 「だって、元宮さんが付き合ってくんないから」 大きな声を出されてしまい、咄嗟に仲の口を手で塞いでしまったが、手の平をべろりと舐められた。 「うわ!きたな!」 「なにそれ、傷つくんだけど。あんなにエッチなキスしたのにさぁ」 「あほぉ!声がでかいっ」 今度は思い切り胸を叩いてやると、大袈裟に咳き込んだ振りする。 「昼ご飯くらい付き合ってよ。特別なことした相手なのにちょっと酷すぎると思うよ」 「職場でその話はすんなって何回ゆーたらわかるんや」 酔った勢いとは言え、あの夜の自分を殴りに戻りたい。 若い頃に面倒な思いをしたからこそ、寝る相手にはきをつけていたのに。 最近は頭を悩ませることが多過ぎて、精神的に疲れてきていた。 離れた場所にいた店長が、騒がしいレジに気がついて視線をよこしてきた。 汐月は自分のレジについて作業を再開したが、仲はしつこかった。 「ランチも無理だから昨日の夜もあのバーで待ってたのに、元宮さん来ないし」 汐月は圭介と約束してから数日間、大人しく仕事を終えると真っ直ぐに帰っていた。 仕事終わりに丈晃が待ち伏せていたらどうしようかと怯えていたが、来る様子もない。 「...体のこと考えて、夜遊びは暫くはやめなさいてゆわれたんやもん」 「え?...誰に?お母さんとか?」 「なんでオカンに言われんねん。子供ちゃうんやで」 「じゃあ、誰にだよ」 「そんなん、めっちゃ優しいイケメンに決まってるやろ。仲くんも見たことあるやろ、あのバーで」 手元に散らかっていた伝票やレシートを綺麗に片付けながら話すと、伸びてきた手に手首を掴まれた。 「...ケースケって男?」 「びっくりした。...そう、圭介さんな。仲くんも圭介さんを見習ったらええんちゃう?あの人はな、優しいだけやないで。相手の事をきちんと考えて叱ったりする事もできる人やから。だからモテるねん」 妙に真面目な顔付きで見つめられ、慌てて手を離した。 「ちゅーか、職場でその手の話は禁止や。仕事しぃや」 レジに近付く人影に気がついて笑顔を向けると、久しぶりにあの常連客が立っていた。 「...いらっしゃいませ」 軽く頭を下げた男は、いつもと同じ作業着だ。 出された予約票を預かり、取り置いていた官能小説を確認させた。 「いつもご利用ありがとうございます」 平静に。と営業用の笑顔を控えめに向けると、本の入った袋を受け取った男が、珍しく真っ直ぐに汐月を見つめていて視線が合った。 「あ、あの、元宮、さん」 「.....はい」 思わず汐月も見つめ返した。 「お、お仕事、何時までですか」 「.......申し訳ございません。就業中ですので、そのようなご質問にはお答えできません」 丈晃が最初に店に押しかけて来た時を思い出してしまう。 その答えだけで帰るだろうと思ったのだが、常連客の男は立ち去らなかった。 手紙を置いた時には一瞬で店を出ていったのに。 「じゃ、じゃあ、後で聞きます」 そう言った男は、ぺこりと頭を下げるとぎこちない足取りで店を出て行った。 「...何アレ。何アレ?ちょっと、元宮さんっ。何だかスキルアップしてるよ、あのストーカー!」 仲が声を上げた瞬間、睨み付けてくる店長の視線を感じた。 汐月は返事をせずに次の客に笑顔を向けつつ、思い切り仲の足を踏みつけてやった。

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