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第8話
心は誤魔化せる。
見たくないものは、見なければいい。
知らぬ間に積見上げてきた防御値だったが、身体が弱ってしまうと心も隙が多くなるものだ。
商品の受け渡しすらくしゃみの連続でままならなくなり、汐月はレジから出されてしまった。
「元宮くん、大丈夫かい?朝より酷いじゃないか」
バックヤードで商品の整理をしていた汐月に声をかけてきたのは店長だった。
大丈夫です。と返事をしようとしたが、大きなくしゃみが出て、マスクの中で鼻水が垂れてしまった。
「夏風邪は長引くって言うからね。今日は手も足りてるし、雨で客足も少ないから、早退して休みなさい。熱が出たりするようなら、この週末は休めばいいからね」
ここはいいから、と背中を軽く叩かれ、かさついた声で礼を告げた。
この風邪の原因は、心当たりがある。
一晩中喘がされ、効きすぎたエアコンと濡れたままの髪。間違いなくあの日が原因だ。
今度会ったら文句を言うつもりでいた汐月の元に、丈晃は来ていない。
メールも来ないし、電話もない。
アポなしで来るのかもしれないと身構えていたが、それも無さそうで、もう明日は姉が来る予定の日だ。
明日の夜までに完治するのは奇跡でも起こらない限りありえない。
汐月は傘を打ち付ける雨音にぼんやりとしながら、風邪をひいてうつしてしまうかもしれないから、どこかホテルを探して欲しい。とメールをした。
(あ〜、やば...。熱はなさそうやけど、めっちゃぼーっとしてまう...)
大雨のせいか、通りに歩く人はほとんど居ない。
向こうにある信号機も雨で白く霞んでいた。聞こえるのは雨音だけ。まるで、世界に自分一人しかいない様な錯覚に陥る。
昨日のうちに風邪薬やスポーツドリンクは買い込んである。食欲はないから、とにかく自宅へと帰ろう。
集中力のない汐月の足は、大きな水溜まりの中へと入っていき、履いていたデニムが重くなっていった。
「う〜、あかん、しんどい〜」
帰宅した玄関で声にすると、それまでの緊張が解けたのか、どっと身体が重くなり動くのが辛くなった。
「も〜、ズボンびちょ濡れやんか。重いねん、腹立つ〜」
文句を言いつつ玄関で靴下とデニムを脱ぎ落とした汐月は、鞄を冷蔵庫の前に放り投げて真っ直ぐにベッドへと向かった。
マスクを外して放り投げ、ティッシュを数枚取って思い切り鼻をかんだ。
「あ〜...もう無理...」
丈晃は、なぜ来なくなったのだろう。
考えたくない事が、静かな頭の中に響いてくる。
手探りでエアコンのリモコンを掴むと、適温に設定された数字が見える。
「...どうせアレやろ...。ねーちゃん来るんや思ったら、そっちのがええかってなったんやろ。...分かっとるわ。皆そうや。.....皆...おんなじや...」
動き出したエアコンの音も、雨音にかき消されている。
汐月は滲んだ涙の中に沈む様に眠りへと落ちていった。
真っ暗になったと思ったら、すぐに耳が痺れるような大きな音と光で心臓が止まりそうになった。
【たけちゃん!たけちゃん、待って!怖い!】
手を繋いでくれていた丈晃に向かって叫ぶと、再び間近で雷鳴が響き、恐怖で涙が込み上げた。
【ボク無理!たけちゃん、はよぉ、抱っこして!はやくぅ!】
突然の雷雨に見舞われ、慌てて帰ろうとしている時だった。
記憶は朧気だが、すぐに汐月を抱き上げてくれた丈晃は、大丈夫、大丈夫。と何度も繰り返し言い聞かせてくれた。
雨で濡れた服の上から、丈晃の温かい手が絶えず撫でてくれていた。
あの時、家族以外に感じたことの無かった安心感を彼に与えられた。
優しくて、頼りになる丈晃が大好きだった。
あのまま離れることなく、一緒にいれたなら良かったのに。
分厚い雲の向こうから名前を呼ばれた気がした。
薄く目を開くと、心配そうに覗き込む姉がいた。
「良かった...。死んでるんか思ったやん。しづ、どない?気持ち悪いとか、吐きそうとかないん?」
幼い頃の夢を見ていたせいで、実家に居るような感覚がしていた。
「...ない...」
「ほんま?...今日はもう金曜の夜やって、わかってる?」
問われてから理解するまで、数秒かかった。
そこで初めて勤務先に連絡すら入れていないと気がついたが、起きようとした汐月の頭は姉の手に掴まれてベッドに戻された。
「まぁ、聞きぃや。今日はな、昼にはこっちに着いててん。昼間に働くしづを見に行きたかったから。でも、覗きに行って店員さんに聞いてみたら、来てへんゆーし」
姉の話を聞く限りでは、対応したのは店長の様だ。休んでいいとは言ってあるが、連絡をして来ないのは少し心配で、一度様子を見に行こうかと思っていたと。
「さっき姉ちゃんから店に電話しといたで。生きてますから大丈夫ですって。元気になるまで無理しやんと休みなさいゆーてくれはったよ」
「...ありがと...」
声を出すとやはり喉が痛い。
水分が欲しくて姉に指差しで頼むと、スポーツドリンクを渡してくれた。
「私かてビックリしたわ。お母さんから合鍵預かっといて良かったけど、殺人現場の第一発見者になった気分やったで」
「.....事件ちゃうし。それよか、姉ちゃん...。風邪うつってまうから、ここはあかんで...」
「わかってる。もうチェックインして来てるし」
必要なものは無いのかと問われて、食欲もないしと伝えると、ゼリー飲料とレトルトのお粥をキッチンに置いておくと言われた。
「とりあえず、たけちゃんと待ち合わせしてるから、なんかあったら連絡してや」
投げ捨ててあった鞄の中から出してくれた汐月の携帯をベッドに置くと、彼女は出て行った。
また様子を見に来ると言われたが、心の中で来なくていいと呟いた。
携帯の画面には店長からの着信と、話を聞いて心配してくれたらしい仲からの着信とメールがあった。
大丈夫なのかというメッセージの後に、泣いている絵文字が繰り返し送られていて、生きてる。とだけ、打ち込んでおいた。
着信の通知にも、メールの通知にも、丈晃の名前はなかった。
携帯を枕元に置いて、布団に潜り込んだ。目を閉じてみたが、落ち着いた体調のせいか眠れそうにない。
閉ざされた視界の中で聞こえるのは、顔を背けていた感情だ。本当は淋しい。着信もメールもなくて、部屋を訪れることも無い。
頻繁に繋がっていた日々が嘘のようだ。
そして、そんな方程式の後に出てくる答えは決まっている。
やっぱり、無理。
過去にも何度もあったことだ。好きだと囁けば、欲望のままに抱くことを許されると勘違いしている奴等と同じ。
同性同士の体の関係は、第三者に知られる事で現実味を帯び、受け止めきれないそれを前に逃げない者はいない。
初恋なんて、実らなくて当たり前なんだよ。
圭介の言葉が頭に響いた。
これは初恋じゃない。
汐月の初恋は、幼い頃に隣に住んでいた優しいお兄ちゃんだ。
再会した丈晃に、その面影は何一つなかった。
煙草も吸わなかったし、汐月の言葉を無視して強引に抱いたりしない。散らかった部屋で官能小説なんて読まない。
だから、初恋じゃない。
突然の姉の登場に動揺して現実に後悔していても、汐月が傷付くのは間違っている。
大丈夫、今はまだ痛くない。深入りする前で良かったじゃないか。
過去に経験したことに比べれば、なんて事ない。
既に深い場所にまで悲しみが沁みていても、今なら勘違いで済ますことが出来る。
みっともない姿だけは見せたくない。
だから、誰も見ていなくても泣かない。
強く掴んだ布団に爪を立て、ただ時間が流れるのを待っていた。
身動きせずに目を閉じているうちに、また眠っていたようだった。来客を知らせる音が聞こえ、体を起こした。
薬が効いているのか、喉の痛み以外は落ち着いている。
「...どちらさん?」
鍵を開ける前に問いかけると、有坂です。と聞こえた。
「...有坂?え?有坂くん?」
扉を開けると、有坂が立っていた。
「あ、あのっ。後はつけてません。ここは凛太郎くんに聞いたんです。今日もあの、凛太郎くんはバイトで来れなくて、でも元宮さんが心配だからって、あの、様子を見てきて欲しいって頼まれたんです」
必死になって話す彼の頬が赤く染まっていくのを見ていると、僅かに心が軽くなった。
「凛太郎って、仲くんやんな?そっかぁ、わざわざありがとう」
どことなく小動物のような仕草をする彼を見ていたせいか、自然と笑顔になっていた。
「あ、あの、これ。食べられそうだったら食べてください」
差し出されたコンビニの袋には、ゼリーやプリンが沢山入っていた。
「大量やんか。ありがとう。ちょっとあがってく?」
有坂の訪問は素直に嬉しかった。
弱っていた気持ちを軽くして貰えるような気がして声をかけると、彼は更に赤くなった顔をぶんぶんと横に振った。
「そ、そんな、元宮さん、具合悪いのにっ」
「もう大丈夫やで。寝過ぎてしもてたし、ちょっと話し相手になってくれたら助かるねんけど。...あ、なんか用事あるんやったら」
「ないです!」
なら、上がって。と汐月が笑いながら言うと、彼は恐縮しつつ部屋へと入った。
「オレンジジュースでええ?」
「あっ、俺がやります!」
「お客さんなんやから座っといて」
ジュースの入ったグラスを有坂に渡し、汐月は届けてくれたプリンを食べた。
遠慮をしてソファにすら座らない彼は、ラグの上できっちりと正座をしていた。
「仲くんからもめっちゃ着信入っとったわ。心配かけてしもてごめんな」
「いえっ、そんな。...でも、凛太郎くん、凄く心配してました。最近...元宮さんが元気ないって...」
「ちょっと夏風邪ひいただけやし、心配ないって。それより、いつの間にそんなに仲良くなったん?」
プリンのカップの底に残っているカラメルソースをスプーンでかき集めながら聞くと、彼は少し考え込んでいた。
聞いてはいけなかっただろうか。
ゴミ箱にカップを入れると、実は、と話し始めた。
以前、バーで仲と有坂と三人でいる時に、圭介が駆けつけてくれた。
圭介と話している内にその場を去った二人は、その後二人で色んなことを話したらしい。
繁華街で有名な彼が相手となると、太刀打ちできる気がしない。と。
「傷の舐め合い、じゃないですけど...。俺と凛太郎くん、歳も近いので、元宮さんの事も話しやすくて...」
「そうなんや。ほんなら良かったやん。友達増えたんやろ?」
「.....俺にはそもそも友達って殆どいないので、とても貴重です」
「あはは、いっその事仲くんと付き合うとかは?」
「え、気持ち悪いんで、冗談でもやめてください」
真顔で即答されたのが面白くなり、汐月はけらけらと笑いだした。
「有坂くんて、面白いよなぁ。なぁ、玲くんて呼んでもええ?」
「...え、えっ?そ、そんな、う、嬉しいですっ」
たったそれだけで真っ赤になる彼は、可愛いと思う。
彼のような純粋さの欠けらも無い自分と、無意識に比べてしまう所為だろうか。
「...玲くん、俺の事好き?」
つい、ぽろりと口から出てしまった。目を丸くして固まった有坂を見て、しまったと考えたが、直後に玄関から物音がした。
「ただいまぁ。しづ、起きてるん?あれ?お客さん?」
扉を開けるなり話しながら入ってきた姉は、有坂を見つけると、笑顔を浮かべて自己紹介をした。
「え、お、お姉さんですか!」
「おい、なんで有坂が居るんだ」
姉の美月の後ろから聞こえた声の主は、丈晃だった。
久しぶりに見る彼は、眉根に皺を寄せて不機嫌そうにしている。
「黒澤さんっ...」
「お前、どうしてここに居る?」
一人暮らしにしては広めのリビングのはずなのに、大人が四人集まると狭く感じてしまう。そのせいなのか、室内の空気が緊張を含んだ。
「お、俺は、元宮さんが心配で様子を見に来ました。...寝込んでいると聞いたので」
ついさっきまで赤い顔で可愛らしかった有坂は、凛々しい瞳で丈晃を見上げていた。
「顔見たんなら帰れよ。俺と美月がいるから心配ない」
「...失礼します」
立ち上がり玄関に向かった有坂を追いかけ、汐月は小声で謝罪した。
「ごめん、姉ちゃんと仲ええから、偉そうな言い方して気分悪うさせて」
何故フォローするような言い方をしているのか、自分でもよく分からないが、二人の間に流れていた空気は不穏だった。
「いえ、大丈夫です。黒澤さんと俺はライバルなんで、そこは仕方ないんです。でも、職場では相変わらず優しくて頼れる班長なので、心配しないでください」
「.......あ、うん」
聞かされた話の意味はよく分からなかったが、汐月が頷くと、有坂はぺこりと頭を下げた。
「お邪魔しました。元宮さん、無理なさらずにゆっくり休んでください」
「うん、ほんまにありがとう。仲くんにもよろしくゆーといてな」
閉まった扉に鍵をかけると、汐月は足音を荒くしてリビングへと戻った。
「アンタさぁ!なんであんな言い方するん?ここを誰んちやと思ってるんや!」
響いた声に目を見開いた姉の姿が目に入って、彼女の存在を思い出した。
(しもた。ムカついてたから忘れてた)
「しづ、なんでたけちゃんに向かってアンタとか言うん?」
同じ様に目を吊り上げた姉は、汐月の頭を軽く叩いた。
「.....それより、二人とも出て行ってや。風邪うつってまうやろ」
何日も連絡もせず、会いにも来なかった丈晃が姉と揃って訪れたことが気に入らなかった。
「有坂もだろ。俺らがダメで、どうしてあいつだけ部屋に入れたんだ」
「な、アンタ...何ゆーてんの?玲くんは心配で見舞いに来てくれたんやんか」
「.......あぁ?」
「オレんちのソファに勝手に座るなや!」
偉そうに足を組んで座っていた姿が許せなくてそう言うと、さすがに姉が動揺している姿が視界に入った。
姉の前でしていい会話ではないのに、冷静で居られない。
「...美月。寝かせてくるから、外で待ってろ」
「え、でも」
「すぐに行くから、出てろ」
気迫に押されたのか、姉は荷物を手にすると玄関へと向かった。
「人の姉ちゃんに偉そうに言うなや!出ていくんはお前やろっ!赤の他人の癖に、!」
掬いあげられるように抱き上げられて言葉を止めると、すぐ隣にある部屋のベッドに投げ落とされた。
勢いがあったせいで息が一瞬止まると同時に、激しい怒りが込み上げた。
「なにすんねん、っ」
起き上がろうとした所を、強い力で押さえ付けられた。体重をかけられると身動きが取れず、腕に軋むような痛みが広がる。
「...っ、痛っ、は、なせやっ!」
叫んだ瞬間、丈晃がキスで唇を塞いできた。
「...っ、む、うぅっ、」
全力で抵抗しているうちに、汐月の右手の拳が丈晃の顔に当たった。拘束が弱まり距離を取って離れると、彼は悔しそうに汐月を睨んできた。汐月の拳は頬に当たったらしく、すぐに赤く色を変えていく。
「.....汐月」
「出て行けや。...はよ出て行け!」
睨みながら叫ぶと、同じ様に睨みつけていた彼の瞳から怒りが消えていった。
すぐに背中を向けた丈晃が傷付いた瞳をしていたのかは、汐月にはもう見えなかった。
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