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第9話
玄関の扉にはロックをしてある。
姉が合鍵を持っていると知っているからだ。
携帯は電源を切った。
騒ぎにされると困るので、念の為姉にはメールをしておいた。
会いたくないから来るな。とだけ。
丈晃との事を探られては困るし、と都合のいい言い訳を考えてみたが、なぜ自分が誤魔化して嘘をつかなきゃならんのだと馬鹿馬鹿しくなったのだ。
姉が乗る新幹線の時間は知らないが、遅くても今夜には帰るはずだ。
明日は月曜日で仕事もあるだろうし、今日はとにかく誰とも連絡を取らずに引きこもっていればいい。
汐月はレトルトのお粥とゼリーを食べた後、お気に入りの恋愛小説を読み返していた。
だが、文字が通り過ぎていくだけで全く集中出来ない。
「は〜...」
床の上に本を置き、DVDの入った箱を覗き込んだ。
そこにもお気に入りが並べられているのに、やはり気が向かない。
木曜から金曜にかけてたっぷりと眠ってしまってからは、寝るのにも飽きてしまった。
体調もすっかり良くなったお陰で、体を動かせないと眠れないくらいだ。
せめて、心が穏やかならばこの時間を有効に使って楽しめるのに。
好きな時に本を読んで、見たくなれば映画をつけて。
「...全部あの顎髭のせいやん...」
せめて夜ならば、行きつけのバーに逃げ込むことも出来るのに。
時計は午後一時を差していて、汐月はソファに寝転がり伸びをした。
明日の夜にはバーに行こう。嫌な事を全部忘れてやる。その為には新しい相手が必要だ。恋人じゃなくていい、一晩だけの関係でいい。
(恋人とか...ほんま要らんわ)
少し前までは、自分が同性しか愛せない事が幸せになれない理由だと考えていた。だが、必ずしもそうでは無いと教えてくれた存在がいた。
バーで知り合った由人だ。彼はノンケの相手と同棲にまで持ち込み、遂に事実上結婚という形を親に認めさせた。
由人や彼のパートナーである静樹には何度か偉そうに説教めいたことをしたが、今の状況を見れば笑われてしまうだろう。
「や〜、ちゃうで!...オレにかてさ...思い出したくない過去とか...トラウマとかあるんやて...」
ソファの背に向かって呟くと、玄関の方から乱暴に鍵を開ける音が響いてきた。
「あ!なんやの、これ!しづ!ロック外しなさい!」
どうやらメールを見た姉が飛んできたらしい。
「うるさいなぁ...近所迷惑やし静かにしてや。警察呼ばれるやろ」
玄関には向かわずにリビングから返事をしたが、気の強い姉は反論してきた。
「警察呼んでくれる方がええねんけど!ほんならこのロック外して貰えるんちゃう?」
「アホか。いくら警察でも姉弟喧嘩に手助けなんかやらへんわ」
開けろと繰り返し玄関で叫ぶ姉を無視していたが、彼女は諦める様子がない。
「しづ!拗ねるんもいい加減にせんと、ほんっま、可愛くないんやで!そんなんやからモテへんのちゃう!」
先程までより声を大きくした姉にうんざりした汐月は、仕方なく玄関へと向かった。
ロックで引っかかり、彼女の顔は隙間からしか見えないが、姿を見せた汐月を睨んでいる。
「.....誰が拗ねとんねん。適当言うなや」
「自分で気付いてへんの?...あんたは昔から拗ねたらそれや。そうやって拗ねていじけるから、お姉ちゃんは我慢しなさいて、私ばっかり損させられるんや」
「は?...もう、ええからはよ帰りや。明日は仕事あるんやろ?」
「ちゃんと話し出来るまで帰らへん!」
「うるさいて、静かに話しぃや」
「ほんなら開けてや!こんなにいい加減な状態で、姉ちゃん帰られへんからな!」
昔はこれ程しつこい女ではなかった気がするが、気の強さに拍車がかかったのかもしれない。
「姉ちゃん」
汐月は扉の隙間の前まで行き、姉を見た。
「落ち着いたらまた顔見せに帰るから。...今日は勘弁して」
姉を部屋に入れたところで、話すことは無い。自身の性癖も、実家を離れて都会の大学を選んだ理由も家族には話していないのに。
「...そんなに妬いてるん。私と話せんくらいに?」
「.....は?」
「たけちゃんやろ。たけちゃんが私とおったんが気に入らんのやろ」
冷静に話をしているつもりだったが、その言い方に頭が熱くなった。
「だから!適当に決めつけて言うんやめてや。姉ちゃんこそ、昔からそれやん。オレの言うことなんか絶対聞かへんし」
「しづがゃんと話してくれるんなら聞く」
「せやから、話す事なんかあらへんし」
「ほんなら昨日のは何?自分はたけちゃんの後輩くんと二人きりで、ヤキモチやいてほしかったんやろ?」
だから姉は嫌なんだ。両親よりも近くにいるせいか、昔から触れて欲しくない所に気付かれてしまう。
「意味わからん。もうええから、はよ帰りや」
汐月自身が平気だと感じているのに、何故彼女には見えてしまうのだろう。
「汐月!」
汐月はリビングに戻り、扉を閉めた。
まだ姉の声は聞こえていたが、大丈夫だ。
ベッドに潜り込んで頭から布団を被ってしまえば、姉の声は聞こえない。
自分の泣き声も、彼女には聞こえない。
「ごめん、たけちゃん。もうあかんわ」
部屋の奥に引っ込んでしまった汐月は、もう玄関には戻らないだろう。
申し訳なさそうに美月は振り向いたが、相変わらず賑やかな姉弟喧嘩だな、と丈晃は苦笑した。
「すまねぇな。せっかく観光に来たのに、めんどくせぇ事に巻き込んじまって」
指先で顎髭をかきながら言うと、彼女は汐月によく似た笑顔で腕を思い切り叩いてきた。
「嫌やわぁ。そんな他人みたいな言い方せんといてや。...たけちゃんは家族みたいなもんやん」
昨夜汐月に殴られた頬には、彼女が貼ってくれた湿布がある。その上をそっと撫でた彼女は、少し淋しそうに見えた。
美月が来ると電話が会った時には、汐月に余計なことは話さないと約束したのに、さすがに昨夜は問い質されると何も誤魔化せなかった。
「とりあえず、もう行かねぇと。新幹線の時間に遅れちまう」
「...たけちゃん。ごめんやで、手ぇのかかる子やけど、よろしくお願いします」
彼女は丁寧に頭を下げると、キャリーを手にした。
そのまますぐに駅まで彼女を送り、改札口で別れた。
お喋りな彼女なのに、別れ際にありがとうと言っただけだったが、昨夜は丈晃が知らなかった汐月の事を教えてくれた。
誰にも話した事も、汐月本人にも問い質したことは無い。口にしてはいけないと彼女なりに内に秘めていたことを、昨夜の状況を見て打ち明けてくれたのだ。
丈晃が引っ越したあと、しばらくは内に引きこもって家族ともあまり口を聞かなかったこと。
落ち着いてからも、女の子のような外見のせいで友達は少なかったこと。
高校は地元の同級生達が誰も通わない所へ入学したが、それが良かったのか親しい友達が出来たらしかった。唯一の友人だったようだが、週末には泊まりに行き来する程の仲だったらしい。
何度か美月も顔を合したが、大人しく真面目そうな雰囲気で、ただの部屋着でいた美月に頬を赤らめて顔を背けてしまうくらいには純情な少年だったらしい。
汐月が地元から遠く離れた都会の大学を選んだのは、彼と一緒に行きたいからだろうと思ったらしい。
その友人としっかりと勉強に励んだせいなのか、彼と付き合いがあるうちに汐月の成績は上がり、両親も遠い大学への進学を喜んでいたと。
でも、と美月は俯いて、ずっと口にしなかった言葉を丈晃に向けた。
合格の発表後から、汐月の様子がおかしくなった。他の大学は一切受験せずにいただけに、弟の合格を心から喜び安堵していたのだが、日が過ぎるにつれて明らかに痩せ細り、顔つきが他人のようになったと。
心配した美月は遠回しに何があったのか探りを入れたが、彼は頑なに話そうとしなかった。
今の状態で家族から離れて一人で暮らすのは無理だと両親にも訴えたが、弟は大丈夫、平気だから。と言い張り、家を出て行ってしまったのだ。
それからしばらく時間を置いて、年末に帰省した弟はかなり元気になっていた。
相変わらず華奢な体つきをしていたが、よく笑って都会の生活を話して聞かせてくれた事で、家族を安心させてくれたのだ。
彼に何があったのかは分からずじまいだったが、きちんと食事をとり笑えるのならば、もう聞き出すことはしないでおこうと、美月は胸の奥にしまい込んだ。
丈晃自身も汐月から聞かされていない事で分からなかったが、汐月に抱いている感情を打ち明けると、彼女はそれで分かったと大きな目を見開いた。
おそらく、美月が親友だと思っていた彼は、汐月の恋人だったのだろうと彼女は言った。
何があったかはわからないが、大学受験のあの時期に別れてしまったのだろう。と。
現に、汐月が地元を離れたあと、美月はその親友だった彼を家から近い大学の前で見かけたのだ。
同じ大学じゃなかったのか。その時はそう思っただけだったが、殴っておけばよかったと、彼女は少し辛そうな顔をして言った。
【だって、本当に酷かったんやもん。顔色悪くて死人みたいやったし。笑ったら私より可愛いのに、毎日お通夜みたいな顔してたし】
それを聞いて、丈晃も見ず知らずのその男を殴りたいと考えてしまった。
と、同時に、もしかしたら初恋の自分を忘れられなくて、こっちへ出てきたんじゃないかと勝手に都合のいい解釈をしていた自分も殴りたくなった。
美月を見送った後自宅へと戻った丈晃は、散らかった和室を眺めた。
汐月はここへ来る度に、汚い、片付けろと繰り返していた。
畳に直に敷かれた布団の上で、腰が痛いと文句を言いながら、丈晃に抱かれていやらしく喘ぎ身を捩っていた。
舌を絡めて腰を押し付けると、もっととねだるように抱きついて来るのが可愛くて、毎回抱き潰しては翌朝に文句を言われていたが。
幼い頃に初めて抱いた感情は、すっかり大人になって変化した彼に対しても、変わらずに胸の中にある。
昔の様に素直に甘えてくれなくても、彼が愛しい。
例え彼が今の丈晃を好きではなくても。別れてしまった恋人をまだ想っているとしても。
こんな状況に陥るのなら、美月がこちらへ来る前にも汐月の元へ通っておくべきだった。
後悔が込み上げて頭を掻きむしると、パンツのポケットに手を入れた。
キーホルダーも何もつけられていないその鍵は、別れ際に美月が丈晃に託してくれたものだ。
もしかしたら、やり方を間違えてしまったのかもしれない。だとしても、やはり彼を離してやれない。
後輩が汐月の部屋にいただけで我を忘れてしまうなんて、それだけ彼を愛してる証拠なのだから。
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