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第10話
枕に顔をうずめていた汐月を慰める様に、エアコンの小さな音だけが聞こえている。
布団を避けて起き上がり、ティッシュを引き抜いて涙を拭った。
この状況は酷過ぎる。
意に反して判明してしまった事に落ち込む以外出来ない。何度思い返してみても、汐月の気持ちは姉に知られてしまっている。
「どうすんねんな...もう帰られへんやん...」
ゲイだという事も、おそらく気がついているだろう。姉に知られたなら、両親にも隠してはおけない。
絶望的な重さを感じたが、そもそも大学の為に地元を離れたあの時から、それなりに覚悟を持って生きてきたはずだ。
(そう、そうやん。.....ええねん。これで誰にもなんの嘘もつかんでええんやん...)
都会で洒落た彼女は出来たのか。会う度に聞かれる両親からの問いに、心苦しくなる必要はなくなったのだ。楽になるじゃないか。
そうして、また自分に思い込ませようとしている。
大丈夫。平気だ。何ともない。
このくらいで落ち込んでいたって仕方ない。
心の深い場所が、それに反発している。これ以上圧力がかけられてしまうと、裂けてしまうかもしれないと。
いつまで誤魔化して生きていけばいいのだろう。
「.....つら.......」
ぽつりと本音がシーツに落ちた瞬間、尋常ではない大きな音が聞こえてきた。
驚いてベッドからおりると、音は玄関から響いていた。姉が戻ってきたのかと思ったが、聞こえてきたのは低い声だった。
「汐月!開けろ!今すぐに開けろ!」
突如向けられた怒声に、それが丈晃だと理解するのに数秒かかった。
「な、なんやねん、もう来るなってゆーたやろ!」
汐月の声は、彼の拳が鉄の扉を叩いた音に掻き消された。
その乱暴な音に身体が反応して肩を竦める。
「...いいから、早く開けろ」
隙間から汐月を射抜くその強い瞳は、身体を繋げている時に見せるものに似ていた。
「汐月」
開けてどうするんだ。言いなりになってこのロックを外してしまうことは、彼を受け入れる事と直結する。
わかっている。惨めに項垂れる未来の自分が見えない訳では無い。
自分の為に開けない方がいいはずなのに、汐月の手は扉に触れた。
ほんの少し力を入れるだけで簡単にロックは外され、開かれた扉から飛び込んできた丈晃は、その場で強く汐月を抱き締めた。
強い力で腕の中に閉じ込められ、息ができない。
(.....このまま...)
どうせなら、気を失うまで力強く抱きしめて欲しい。
逞しい腕と煙草の匂いのする胸の中で、汐月はどれだけ彼を欲していたかを自覚した。
「...汐月」
汐月を包む彼の身体は熱く、汗でしっとりと湿っている。彼はなぜ走って来たのだろう。そもそも、なんの為にこうして汐月を抱き締めているのか。
都合のいいセフレを繋ぎ止めておきたいと思ったのか。男は汐月が初めてだと言った。ならば、本音は女性がいいはずで、この先の人生に汐月は邪魔なはずなのに。
あぁ、もう暫く遊んでいてもいいと思っているのかもしれない。
何年も会っていなかった姉の美月が、予想より我儘に成長していたせいで、嫁にするには無理だと悟った可能性もある。
抱き締められているくせに、頭の中は防御線を張るのに大忙しだ。
傷つけられる事が分かっていて、期待するのは辛い。
愛したなら、自分も愛されたい。願いは叶えられる可能性が低く、とても難しい。
「...鍵、どないしたん」
目を閉じて丈晃に体重を預けると、不思議な感覚に陥る。
「...美月から預かった」
ほら、予想通りだ。
美月に弟を頼むと言われ鍵を預かったのだろう。本命に頼まれたのなら断れない。そして、せフレだったなんて知られたくは無いはずだ。
「.....心配いらんてゆーてるやん」
心地良い腕の中から逃れようと手を突っ張ったが、逞しい身体は離れない。
「オレからあんたとの事なんか言わへんし、変に気ぃまわさんでええねんて。.....姉ちゃんにももう会わへんし。ほんなら安心やろ...?約束...するから、もう離してや...」
防御線を容易く乗り越えてしまう感情が、言葉とは正反対に胸を乱していく。
「...何の話をしてんだ?」
惚けた声に、何故か心が傷ついた。声を出す前に涙が溢れそうになり、唇を噛み締めてそれを堪える。
「あ、あんたの...話やん」
「よくわかんねぇけど、俺はお前がいい」
突っ張っていた腕から力が抜けると、更に強く抱き締められた。
大きな腕がぎゅっと押し付けていて、汐月の顔が彼の胸に押し潰されてしまう。
「聞いてるのか?汐月」
「く、苦しいねんっ、聞こえてるけど...っ」
「あぁ、悪い。じゃあ、」
汐月を腕から解放すると、丈晃はその場にしゃがみこんで見上げてきた。
「俺はお前だけが欲しい。...これでいいか?」
いいかとはどういう意味なのだろう。そもそも、何を打ち明けられているのかも理解し難い。
「.....意味...わからん...っ」
「意味はわかるだろうよ。.....愛してるって言ってんだ。そこはわかれよ」
少し照れ臭そうに眉を寄せた彼は、立ち上がるなり汐月に触れるだけのキスをした。
「.......あ、あ?え?なっ、に、ゆーてんの、アンタ、」
思いもよらない進展に頭がついて行かない汐月は、変な笑い方をしながら足を引いた。
「...はは、なんだ、顔が赤いぞ、お前」
目を細くして笑う姿に胸が大きく揺れ、今度は何も言えなくなって視線を落としてしまった。
「.....汐月。...すげぇ、可愛い...」
俯いた耳元に低い声がかかり、ぞくりと肩を震わせてしまった。それを諾と受け取ったらしい彼は、靴を脱ぐと汐月を抱き上げて室内へと進んだ。
「何、ちょっと!勝手に入らんといてや!」
「お前まだ病み上がりだろ。俺も昨日は美月に全部話せって詰め寄られて寝てねぇんだ」
全部話せ?という事は、もしかして汐月にまつわる話を姉に話したという事だろうか。
「なに?姉ちゃんに何話してん!ぶわっ!」
ベッドに汐月を落とした彼は、自分もベッドに横になると、抱き枕の様に再び腕の中にすっぽりと収めてしまった。
「ふぁぁ...」
「寝る前に白状しろや!姉ちゃんには言わへんて約束したんちゃうんか!」
「俺ばっか悪いわけじゃねぇだろ。...お前が美月の前であからさまに嫉妬するからバレたんだって。...痴話喧嘩目撃されちゃ言い逃れも出来ねぇからな」
痴話喧嘩だとか嫉妬だとか、否定したい箇所はあったが衝撃が強くて言葉が出てこなかった。
「どういうことだって迫られちゃ、もう、言うしかねぇだろ。美月には悪いけど、弟は既に俺のもんだって話しといた」
「な、なんなん...それ...信じられへん」
状況は汐月が予想したよりも悪いかもしれない。性癖だけでなく、汐月と丈晃が寝ていた事も知られているようだ。
「あぁ、あとな」
「なんやねん!まだあんの?」
頭を起こした丈晃は、汐月の額にキスをした。頬の辺りに彼の顎髭が当たって肌を刺激してくる。
「有坂がここにいたのに俺が嫉妬してキレたせいもある。美月にバレちまったのはお互い様って事だな。仕方ねぇからもう諦めろ。で、少し寝ろよ。夜は俺が飯作ってやるから」
嬉しそうにそう告げた彼は、汐月を羽交い締めにしたまますぐに寝息を立て始めた。
喜んでいいのか、嘆いた方がいいのか。自分の感情表現すらどうすれば正解なのかが分からない。
それでも、真っ直ぐに向けられた言葉は、間違いなく汐月の心を満たしていた。
まさか、愛してるだなんて言われるとは思っていなかっただけに、勝手に口元が緩んでにやけてしまう。
(ちゃう!喜んでる場合ちゃうねんて!姉ちゃんに知られてしもたやん!どないすんのさ!)
複雑に交差する感情は汐月の心を乱してはいたが、無防備に寝息を立てる彼の寝顔を見てしまうと、馬鹿らしくなってしまった。
(...愛してる...やて...)
昔の面影をまるで感じさせない彼に対して、いつの間に恋心は膨らんだのだろう。
流せてしまえない彼の言葉だからこそ、心は酷く乱されてしまう。汐月こそ、丈晃を想っていた。それはもはや認めざるを得ない。
温かい腕の中でゆっくりと眠りへと沈みながら、初恋も時には実るのかもしれない。と汐月は圭介を思い出していた。
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