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第13話

駅前の柱を背に息をついた汐月は、湿度の高い夜空を見上げた。 深夜に雨が降ると天気予報が出ていたが、きっちりと当たりそうだ。 蒸し暑さは体力を奪うので昔から苦手だ。早く帰りたいと思うと同時に、昨夜の激しいセックスを思い出した。 昨日は確か、勤務を終える前に丈晃のことを考えていた。 特定の相手がいる時には他にはいかない。だから、出版社の彼とは無理だ。丈晃がいるのだから。そんなふうに考えていると、やたらと濃厚な行為ばかり頭に浮かんでしまっていたのだが、そこに汐月を待っていた丈晃と有坂に会ってしまったのだ。 (...我ながらホンマに恥ずかしい...。なんやろ、これ。めっちゃ甘酸っぱいって言うか、10代の頃みたいやわ) 恋を、楽しいと思えている。それだけで汐月にとっては大きな奇跡だ。早々に色んなものを諦めて生きてきたが、そんな無欲な自分に神様が幸福を与えてくれたのかもしれない。 28年生きてきて、それなりに好きな相手もいたけれど、一緒にいるのがこんなにも気楽な相手はいなかった。 もしかしたら、人生で最後の恋になるかもしれない。 少女漫画のような台詞を思い浮かべた時に、懐かしい胸の痛みが訪れる。 記憶も朧げなのに、傷付いたあの悲しさと切なさだけは汐月の心に染み付いていた。 (なんで今思い出してんねん...) 古い恋心。彼こそが運命の相手だと、信じて疑わなかった。もしかして、なんて考える事は彼との愛が偽物になるような気がしていたから。 若かった。けれど、慈しみ育てた気持ちに嘘はなかった。 「元宮さん、お待たせしました」 息を切らして現れたスーツ姿の渡を前にして、長く訪れなかった感覚が突然湧き上がった。 「暑い中すみません。あの、すぐに終わらせるので、そこのカフェに入りませんか」 何故名前とこの笑顔を見た時に思い出さなかったのだろう。 人の波の向こうに見えるカフェを指差した渡は、一度背を向けたあと立ち尽くしたままでいた汐月を振り向いた。 「...あの、元宮さ、」 「ゆう、ゆうせい...?結生なん...?」 汐月の呼び掛けに一瞬驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑った。 彼は汐月の前に足を戻すと、汐月の手を取り強く握り締めた。 「...汐月...。ごめん...、本当にごめん...」 徐々に苦しそうな表情になった渡は、汐月の指先を自分の胸に当てて俯いてしまった。 もしかして泣いているのだろうか。 「ちょ、お、落ち着いてや」 「...うん、ごめん。はは、...会えて...凄く嬉しくて...」 笑うと目尻が垂れるのは変わらないようだ。 「思い出してくれて嬉しいけど、俺、ちゃんと殴られる覚悟できてるから」 「...それは謝罪の意味で?」 「.......うん」 これはよくドラマなんかで見る光景だ。実際に今汐月が彼を駅前という人通りの多い場所で殴ったとしても、その後騒がなければ通報もされないだろうし、長年引き摺ってきた悲しい気持ちも晴れるのかも。と、そこまで考えて、自分は殴りたいと思っていないことを確認できた。 「それは遅過ぎやわ。昔のこと過ぎてそんな感情あらへんもん。...当時のオレならボッコボコにしてたやろけど」 「...そうか...。そうやんな、ほんまに...俺、阿呆でごめんな...」 言葉が同じイントネーションになり、より鮮やかに当時の記憶が蘇った。 優しい彼を、汐月は知っている。いつも一人でいた汐月に声をかけてくれた優しい彼だから好きになった。 冬の教室で寒いと言いながらも、閉門の時間まで肩を寄せて話していた事も、教室の隅でカーテンに包まれてキスをした事も。 (今思いだしなや!自分!) より鮮明に思い出した事で、手を握られてる事が急に恥ずかしくなってきた。 「...汐月、あ、あんな。俺、こっちで会えたん運命やと思うねん」 「.....へ?」 握られた手が離され、彼の腕が汐月の身体を抱き寄せた。 「ずっと忘れられへんかってん。会いたくて...、会いたくてたまらん時にこうして再会できたんは、運命としか思えへん」 スーツの肩が汐月の口元に押さえつけられて、昔より更に背が伸びた気がしたが、周囲から注目を浴びている事に目を丸くした。 「結生っ、は、はなしてっ」 「嫌や。お茶だけとか嫌やし、今夜俺の家に来てくれるんやったら離す」 「あ、アホな事言いなやっ。皆見てるんやて!ホモやって笑われるで!」 「かまへん」 渡の声は汐月の耳元で誠実に響いた。 「もう、俺は後悔したないねん」 その一言が、高校生だった自分たちの間に存在していたのなら、未来は変わっていただろう。 「.....結生...」 後悔なんて、誰だってしたくない。だからこそ汐月は伝えなければならない。 「あの、オレな」 突如汐月の身体がぐんと浮いた。渡が驚いた顔で汐月を見上げていたが、驚いたのはこちらの方だ。 「紹介してくれるよな?汐月」 丈晃だとはすぐに判明したが、彼は子供にするように汐月を抱いてぶら下げたまま下ろそうとしない。 「....汐月、この方は...」 「どうも。ほぼ家族の黒澤と言います」 「は?」 汐月は恋人だと言うつもりでいたのに、丈晃本人が妙な言い回しをした事に引っかかった。 「なんやねんな、ほぼ家族て」 「幼馴染みだし、家族ぐるみの付き合いだろ。彼は?」 「ちょお、待ちぃや!なんなん、その言い方」 「...今そこにキれるのかよ」 「アンタの言い方が悪いからやろ」 いい加減に下ろせと暴れるとやっと解放されたが、丈晃はじっとりと汐月を見ている。 「家で待っとけゆーたのに、なんでここまで来てるん」 「汐月。その話は後だ。先に紹介してくんねぇか」 汐月の質問を全て無視する丈晃に腹が立ち、茫然と二人を見ていた渡の腕に自分の腕を絡ませた。 「結生はオレが高校の頃に付き合ってた元彼や!ほんで運命の再会したから離したないって言われてたとこや!」 大声を出した事で周囲には人だかりが出来つつあることに気がついた汐月は、慌てて渡の腕を放した。 数秒の間そのまま丈晃と睨み合っていたが、彼は長い溜息をつくと顎髭をかいた。 「...今日は帰る。お前も自分ちに帰れ」 「.....約束は?」 「中止」 背中を向けた彼は一度も振り向かずに歩き、帰宅で賑わう人混みに消えてしまった。 「...ええんか?」 「ムカつく。なんやねんな!勝手すぎるやろ、最低や!顎髭親父!」 「.........今彼...なんやな。あの人...」 「知らん!もうええわ、結生。ご飯行こ」 渡のビジネスバッグを掴んで歩き出すと、もう終わりか、とか、ホモの痴話喧嘩だとか聞こえてきた。 昔はこんな事が怖くて仕方なかった。今ならば睨みつけてやるだけで忘れることが出来るのに。 ならば、丈晃とはどうなのだろう。 よく分からないモヤモヤとした苛立ちは、一人ではなかなか取れないものだ。 今夜は渡を相手にぶちまけて、また落ち着いたら丈晃に会いに行けばいい。 そんな軽い気持ちで居酒屋に入り、渡と再会を祝して乾杯をした。

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