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第15話
効きすぎたエアコンで冷えたせいか、寒いな。と目を開いた。
室内は暗くなっていて、ベッド上で身体を起こした汐月は目を擦りながら時計を見上げる。
「.......あれ?」
少しだけ。と掃除や洗濯を終わらせて横になったのは覚えていたが、それは昼間の話だ。
「嘘やん...貴重な休日を家事と睡眠だけで潰してしもたんか...」
昨夜は憂さ晴らしに渡を付き合わせて深夜まで飲んで、目が覚めたのは昼近くになってからだ。
飲んだ割には二日酔いもなかったが、悶々とする気持ちを軽くしたくて掃除に精を出していた。終わらせてから休憩のつもりで横になったが熟睡してしまったようだ。
「.....なんか損した気分やわ..」
ベッドに倒れ込むと、こんなはずじゃなかったのに。と同じ言葉が繰り返し浮かんでくる。
前回の休日前にはここに丈晃が泊まりに来て、気が済むまでセックスを楽しんでいた。
朝目が覚めると、テーブルには朝食が用意されていて、夜は仕事帰りに買い物をした丈晃が来て夕食を作ってくれた。
セックスに疲れただるい身体を休めつつ、満たされた心で彼の帰りを待つ。
何も生み出さない怠惰な休日だが、同じような過ごし方でも汐月の充足感が違う。
昨夜、彼はここにいなかったし、本能のままに求め合うことも無かった。
約束をしていたのに、中止の一言で破ったのだ。
「...結局なんやねん。エロ髭は何を怒ってるんや?」
渡に抱き締められたからだろうか。だが、あれは丈晃が怒るような意味合いのものでは無い。
怒っていると言うなら、汐月の方が怒っている。
彼を恋人だと紹介しようとした汐月に、自分はほぼ家族の間柄だと言い切ったのだ。
「家族ってなんや?家族はキスせんやろ!えっちもせーへんわ!アホか!」
枕を振り回して壁に向かって投げつけると、仰向けになった。
どうせなら、背を向けるのではなく、攫って欲しかった。
鼻の奥がつんと痛くなり、涙が出そうになった。
「...くそ、エロ髭のせいで、なんか泣き虫になった気がする...」
もう一度時計を見て確認した。丈晃はもう仕事を終えているはずだ。
「ご飯一緒に食べへんかってメール...。電話、とかしてみる?」
リビングに放置していた携帯を取りにいそいそと移動すると、メールが数件入っていた。
「.....結生...?」
メールを読もうとしたところに、渡から着信が入った。慌てて出ると、早いやん。と笑う声が聞こえる。
「今、丁度携帯見ててん。ごめん、メール見てへんねんけど」
《いや、ええねん。一人やろ?夕飯ご馳走するから出て来ぃや》
「え........。ん〜、そやなぁ。お酒抜きやったらええよ」
《ははは、昨日はめっちゃ飲んでたもんな。明日からの週末は仕事なんやろ?まぁ、飲まん方がええやろな》
電話越しに笑う声が、昔より少し低い。汐月は駅前で渡と待ち合わせをする事にした。
金曜の夜はいつもより人が多く、駅前は蒸し暑さが増している気がした。
浴衣姿の女性がちらほらといて、近くで祭りをやっているのかのかもしれない。
今夜は渡の方が先に着いていて、手を振る彼の元へ走ろうとした時に浴衣姿の少年にぶつかってしまった。
「あ、ごめん!」
彼は手に小さな水の袋を持っていて、大丈夫かとしゃがんだ時に金魚が見えた。
「ごめんな。金魚さん、大丈夫やろか」
「うん、平気。ぶつかってごめんなさい」
「こちらこそ、大人やのにごめんなさいやな。お祭りしてた?」
可愛らしい少年に思わず話しかけると、渡が駆け寄ってきてきた。
「お祭りね、明日もやってるよ。橋の向こうの河川敷なんだ。お兄ちゃんも金魚欲しいんなら行ってみてね!」
じゃあね、と手を振って別れた少年を見送ると、渡が行きたいのかと聞いた。
「そうちゃうけど。人混み好きやないし、暑いし。.....金魚とか、懐かしいなぁて思っただけ」
青くて長細い箱の中で泳ぐ金魚は、夜店の照明を浴びて金色に輝いて見えていた。
子供の頃に見た夜店で、なんて綺麗なんだろうと感動した記憶がある。
「今から行ってもええけど?」
「行かへん。普通にご飯でええよ」
渡の方が行きたそうにしていたが、特に行きたくもない場所にわざわざ付き合う気力はなかった。
もし、これが丈晃ならばはしゃぐ彼を見てみたくて行ったかもしれないが。
(ちゃうて。もーエロ髭はええねんて)
渡がよく行くという和食の美味しい居酒屋へと向かったが、優しい味の料理を食べても何故か落ち着かない。
「...あんまり口に合わへんかった?」
食べながらぼんやりとしていたせいか、半分程食べた所で箸を置いていた。
「や、美味しいねんけど、昨日飲み過ぎたからあんまり食べられへんかも」
飲み過ぎたことは事実だが、取ってつけた言い訳になってしまった。
昨日の夜、喧嘩別れしただけなのに、身体が会いたくて落ち着かない。
「なんや、昨日はめっちゃ色んな話してくれたのに。お酒飲まんと話しにくい?」
「そんなことないけど...」
「...昨日は聞けんかってんけど、もしかして...。汐月が大学出て地元には帰らんかったんは...。俺がおったから?」
水のグラスに口をつけると、中に入っていた大きな氷が唇を冷やした。
「まぁ、そうやんな。同じ大学受けようって頑張ってたのに、直前で俺が逃げたんやし」
戻せない過去の記憶は、どうにか変えたいと思う様な衝動は伴わない。けれど、あの時に感じた絶望は深く心の中に浸透していて、ふとした瞬間に感覚が蘇る。
「.......俺が別れようって言った時、汐月は嫌やって言うと思ってた」
グラスから手を離しても、指先には冷たさが残っていて濡れている。
「でも、うんって言われたし...。って、違うな、そうやないねん。...別れてくれてほっとしたんや、俺は」
少し残念そうに、安堵した顔を朧気に覚えている。
その瞬間、彼は自分と離れたかったんだとようやく理解した。
「こっちで同じ大学に入れたら、一緒に暮らそうって話してたやん。そうしたかったんはほんまやねんけど、受かる為にめっちゃ勉強頑張って成績上げていく汐月を見てたら...、ちょっと怖くなってきてん。このままでええんかなって。男同士でずっと一緒におるんが、不安になったんや」
彼の言いたいことは分かる。当時の汐月はまだ幼くて、セックスは出来ても頭の中は子供だった。
彼への気持ちだけあれば生きていけると思ったし、疑う事は罪だと信じていた。
「そんな、改まって言わんでもええよ。...もう、終わった話やんか」
「だから、新しくこれからまた始めたいねん」
小さなテーブルの上で汐月の手を握りしめる彼は目立っている。
それでなくても広い店ではなくて、カウンターに座る客達もちらちらとこちらを見ている。会話もほぼ聞こえているのだろう。
「.....結生、オレな。長い事恨んでたよ。将来誓い合ったのになんでやねんて。昨日の夜、酔ったオレは言わんかった?」
記憶は朧気だが、酒に酔った勢いでここぞとばかりに吐露した記憶はある。
「...言ってた」
「せやろ。長い時間がやっと忘れさせてくれてさ。オレも若気の至りやったなって、思えるようになってん。それに.....あの人おるし」
「黒澤さんはノンケやろ」
食い気味に言った渡に驚いた。
「会ったん?...どこで?」
昨夜は深夜まで汐月といた渡が、今一緒に夕飯を食べているが、確かに時間は遅い。
ここに来るまでに会っていたのだろうか。
腕時計を見た渡は、確認しに行こう。と言って席を立った。
何を企んでいるのかは分からないが、嫌な予感がするのは間違いない。
彼の案内で夜の繁華街を歩いているうちに、風俗店が並ぶ通りへと辿り着いた。
派手なネオンが目に痛いくらいだが、汐月がストレス発散する為に訪れる界隈は一つ筋向こうなだけだ。
特に珍しくも何も無い。
「ここや。時間的にそろそろやねん」
そう言った渡は汐月の肩を抱いて、雑居ビルの二階を指さした。
汐月も顔を上げたが、目の前の細い階段から出てきた人物が先に視界に入った。
「...玲くん?」
「元宮...さん...?元宮さんっ!」
階段を転がるように通りに出て来た彼は、その勢いのまま汐月に衝突するように抱きついてきた。
「うわ、ビックリし、くっさ!ちょ!酒臭い!」
「元宮さぁぁん」
「おい、何抱きついてんねん!」
「うるさい、結生っ。って、玲くん臭いから離れてや!」
通りの真ん中で三人が団子になって揉めていても、誰も足を止めないのが繁華街だ。
有坂の力はかなり強く、意外にもしっかりと筋肉がついていることを知った。
「有坂、先に行くなって言っただろうが」
階段を下りてきたのは丈晃だった。
それを見た汐月は、騒ぐのをやめて口を閉じ、有坂にしがみつかれたままで二階の窓を彩る風俗店の看板を見た。そのまま視線を階段の一番下の段で立ち尽くす丈晃に向けると、彼はしまったという顔をしていた。
「...結生」
「はい」
「ここにピンポイントで連れてきたって事は、知ってたんやな?」
隣に立つ渡は、怯えた様に何度も頷いた後汐月の後ろへと後ずさって行った。
「元宮さんっ」
「玲くん、ええ子やからちょっと黙っててくれへん」
「いや、だめれす。俺、ちゃんと童貞捨ててきたんで、抱かせてください」
「はい?」
酒の匂いが酷くて気が付かなかったが、有坂の目はほとんど閉じていて正気ではないと窺える。
「今すぐ行きましょう!」
有坂は軽々と汐月を担ぎあげると、荷物を運ぶ様に歩き始めてしまった。
「ちょ!怖いって!」
「有坂!待て!」
工場勤務とは言えなかなかの力仕事をしているとは聞いていたが、成人男性を軽く抱き運べるとは聞いていないし、有坂は汐月とほぼ身長も変わらないので余計に驚いた。
「それは俺のだ、有坂」
歩き続ける有坂の前に立ち塞がった丈晃は、汐月を離さない有坂ごと抱き上げてしまった。
「怖い!おろせや、えろ髭!」
「大人しくしてろ、汐月!有坂、落とすなよ!」
二人を纏めて抱き上げてしまった丈晃は、そのまま足早に繁華街を抜けてしまった。
気が付くと渡はいなくて、人通りがない場所で降ろされた。
また騒ぐかと思われた有坂は寝息を立てていて、丈晃がやれやれと背負った。
「汐月。こいつは俺ん家で寝かせる。お前はどうする?」
予想もしない事態に巻き込まれて呆然としていたが、単純に離れたくないと思ってしまった。
「...行く」
素直に告げると、有坂を背負っているのに丈晃は手を繋いでくれた。
「とりあえず、帰ったらちゃんと話すから」
ただそれだけの言葉で真相も何も分からないのに、何故か涙が出そうになった。
手を繋がれて歩きながら泣きそうだなんて、子供の頃のようだ。
汐月は涙をこらえる為に丈晃の手を強く握り締めた。
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