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第16話

いつもと変わらない、散らかったアパートの部屋には住人の匂いが充満している。 夏の熱気は開け放たれた窓から逃がされることなく室内の暑さを保っていた。 「汐月。窓閉めてくれ」 ぐにゃりとした有坂を万年床に転がした彼に言われ、窓を閉めた。 「あっち...」 Tシャツの袖で汗を拭う彼はそう呟くと、冷蔵庫からペットボトルを取り出して喉を潤わせた。 背の高い彼が小さな台所に立つ姿を見る度に、そのスタイルの良さに感動してしまう。 初恋の彼の面影を感じる唯一のポイントかもしれない。 中学の制服ズボンの裾が、何度直してもすぐに短くなる。彼の母がそう話していた。 彼は飲みかけのペットボトルを汐月に渡した。 黙って受け取り冷たい水を飲むと、僅かな時間だけ暑さを忘れることができた。 まだ中身の残るそれを差し出すと、大きな手に腰を抱き寄せられた。 引き寄せる丈晃はそのまま数歩後ろへと下がり、台所の流しに凭れて汐月を抱き締めた。 身を寄せるだけで、彼の身体から夏の熱が伝わってくる。 「.....これって、誤魔化してるん?」 有坂がいなければ、言葉がなくてもセックスという仲直りができたかもしれない。 「誤魔化すもなにも。俺はしてねぇよ。...職場の先輩方が面白がって有坂を強引に連れ出したから、付き添いで同行しただけだ」 「それを信じろって?」 「.....信じてくんねぇのか?」 背中に回された優しい手は、汐月に嘘をついていない。 「...そういう問題ちゃうやん。アンタが浮気なんかせんって思ってても、腹立つんは当たり前なんちゃうの?してへんからって偉そうにするんやったら、オレはそんな男とは付き合えんなぁ」 湧き上がる不快感をなるべく声に出さないように。鬱陶しいだとか、面倒だと思われないように。思われたくないのなら言わなければいい話だ。けれど、感情を殺して我慢するような付き合いをしたくない。 もう幼く我儘な子供じゃないのだから、それなりに上手い自分を認識して欲しかった。 汐月の言葉の意味が伝わったのかどうかは分からないが、丈晃の腕が強く抱き締めてきて、安心感が胸に拡がった。 「.....悪かった。もう行かねぇよ」 「...うん...」 他人の汗の匂いが好ましいだなんて感じるのはおかしいだろうか。強く抱きしめられると心も身体も彼に守られている様で、全てを委ねてしまいそうだ。 「それと、昨日もな」 「それはオレも...ごめんやけど、そもそも家で待ってへん上に変な言い方するからやで」 「変な言い方?そんなのしてねぇだろ」 「よう思い出してや。ほぼ家族とかゆーたやろ」 汐月の髪も汗で少し濡れているのに、丈晃の手が優しく頭を撫でていて気持ちがいい。 「俺としてはもう家族だけど。結婚すりゃ、家族だろ」 うっとりと閉じていた目を開いた汐月は、予想外の言葉に返事が出来なくなった。 顔を覗き込んできた丈晃は、小さな声で「嫌なのか」と呟いた。 嫌なわけが無い。 彼と再会してまだこの季節しか過ごしていないのに、汐月の心はもうこの先を決めてしまっている。 どれだけ深く愛し合ってもどこかで妥協や苦悩を抱えて生きる事になるのに、どうしても彼とがいい。 嬉しくて仕方の無い言葉に胸が震えるのに、切なくて苦しい。 汐月の伸びた手が丈晃の頭を掴み、下へと引き寄せた。彼に体重を預けて精一杯背伸びをすると、なんとか唇を重ねることが出来た。 甘く吸い上げて放し、彼の胸元から見つめる。 「...好きだ、汐月...」 強く顎を掴まれ、どこにも逃げないのに。とおかしくなった。 唇が再び触れる前に口を開いて迎え入れてやると、舌を絡ませたまま抱き上げられた。 浮遊感に驚いたが、向きを変えた丈晃は汐月を流しの作業台の上に載せた。 「ちょ、ん、ここ、座るとこちゃう、ッ、んむ...っ」 話そうとする汐月の唇を追いかけて塞ぐ彼は、聞く気は無いらしい。 仕方なく長いキスに身を任せていると、トップスの中に入った手が脇腹を撫でてきた。 「ふはっ、やめてや。くすぐったいやろっ」 「なら、こっちな」 するりと移動した手は胸元の突起を撫でてきた。 「そこもあかんっ。...玲くん、寝てるやろ...っ」 流しに腰掛ける汐月からは壁があるせいで寝ている有坂の足元しか見えなかったが、声は小声でも届いているはずだ。 「最後まではしねぇよ。...少しだけ触りたい」 特に興奮した声でもないのに、告げられた言葉に汐月の腰の辺りがぞくりとした。 「.....少しって...」 「下は触らねぇから。な、服捲って」 和室からの明かりだけのせいか、台所は薄暗い。なのに、丈晃の黒くて鋭い瞳ははっきりと見える。 「.....えろ髭...」 文句を言いつつも言われた通りにトップスの裾を持ち上げて胸元を晒すと、嬉しそうに笑った彼に可愛いと言われてしまった。 その笑顔に胸がきゅんと音を立ててしまったが、乳首に吸いつかれて空いていた手で口を塞いだ。 舌先だけでちろちろと乳首を弄られ、刺激を受ける度に腰や背中が揺れてしまう。 「...おっぱい気持ちいいか?」 まるで女性の身体のような言い方をされて腹が立ったのだが、先程見せられた笑顔を思い出すとそれも霧散してしまった。 「汐月、舐められるのと吸われるのどっちがいい?」 「どっちでもええけど、もうおしまいやっ。声出てまう...っ」 口を閉じていても喉声が出てしまう。いくら眠っていても、今有坂が起きてこちらを覗けば全て見えてしまうのだ。 「.....お前、すげぇエロい顔してる」 「はぁ?」 的外れな返事に声を出すと、乳首を強く吸い上げられた。 「...っふ、ん!」 「可愛い...汐月...」 痛みを感じる程強く吸われてしまい、止めさせるために勢い良く頭を叩いてやったのだが、全く効果がなかった。 彼は汐月の唇をキスで塞ぐと、体重をかけてきた。狭い流しの上で汐月の背中が廊下側にある小さな窓につくと、動いた弾みで汐月の足が流しの下にある収納扉に当たり、大きな音が響いた。 その瞬間、丈晃も動きを止めて和室の方へと集中したが、有坂が起きた気配はない。 「もう、いい加減にしぃや」 改めて額を叩いてやると、仕方ないな、と抱き上げられて流しから降ろされた。 止めろと言ったのは汐月だが、離れてしまうのは名残惜しくて高い位置にある腰に手を回して抱きついた。 「.....ヤれねぇ時に可愛く甘えるなよ」 よしよし、と犬猫にするように撫でられたが、素直に気持ちがいい。 「なぁ、汐月。もうこの際だからぶっちゃけてぇんだけど」 丈晃はそう言うと、今度は床に座ってあぐらをかいたところに汐月を乗せた。 後ろから回された逞しい腕に嬉しくなり、手のひらを添わせた。 「まだあんの?...隠し子とか嫌やで」 「なんで隠し子なんだよ。いねぇよ、そんなの」 「ほんなら何?」 「.......いい加減、名前で呼んで欲しい」 いつか言われるかもしれないと思っていたが、今このタイミングか。と、汐月は眉を寄せた。 「運命の再会を果たしてから、もう夫婦になるってのに、まだアンタ呼ばわりされてんだぞ」 男同士で何が夫婦だと突っ込んでやろうにも、悪いのは自分だと分かっているので言い返せなかった。 「汐月。呼びにくいなら、昔みたいにたけちゃん呼びでもいいからさ」 「そっ、そっちのが出来ひんわ!そんな.....は、恥ずかしすぎるやろ.....っ」 「なら、丈晃って呼べよ」 「.......ぅ...」 既に繰り返しセックスをした仲で名前が呼べないというのはおかしいとは思う。だが、今更過ぎてどうしても照れ臭いのだ。 ほら早く。と、後ろからせっつく丈晃は、汐月の肩に顎を乗せていてトップス越しでもチクチクとして痛い。 「髭で痛いからやめてやっ」 「呼んでくれるまでジョリジョリの刑だな」 今度は首筋に顎髭が擦り付けられてきた。これは冗談抜きで痛い。 「ちょっ、痛いって、アホっ」 「もたついてる汐月が悪いんだろ」 「なんでそんな、いたっ、もう!髭!髭剃ってこい!ほんなら呼んだる!」 痛みから逃れるために咄嗟に言ったのだが、丈晃はすぐに立ち上がると台所の奥にある洗面台に行ってしまった。目と鼻の先にあるせいで、シェービングムースを顎に撫でつけて剃刀を動かせるのが見える。 (え、まじで?) 何度言っても剃らなかったくせに、さっさと剃り始めた丈晃の顎は汐月が困惑しているうちにサッパリとしてしまった。 「剃ったぞ」 床に座り込んでいた汐月の前に、向かい合って座る彼はにっこりと笑った。 汐月の手を取り、自分の顎を撫でさせて確認させる。 「今度はお前の番」 「.......あ、あんだけ言うても剃らんかったくせに...っ」 「自慢じゃねぇけどよ。髭がない方が若い女子にモテてめんどくせぇんだ。だから生やしてた」 「な、なにそれ!なんの自慢やねんっ」 「だから自慢じゃねぇけどって言っただろ。それより、こっちだ。汐月」 汐月の手のひらにキスをした丈晃は、頬を擦りつけている。 もういい歳をした大人が、名前を呼ばれたいと褒美を前にした犬のように。 「.....た、たけあき.....」 面と向かって言える勇気がなくて俯いていたが、呟くと抱き締められた。 「もう一回」 「.....ムカつく...丈晃ムカつく...」 「俺にとっては髭より大事な事だって意味だ。次から名前で呼ばねぇとその場でべろちゅーするからな」 「あ、アホやろ、あんたっ」 「はい、違反。ほら、舌出せ、汐月」 「なんで従わなあかんねんっ、やめろやっ」 「俺とのちゅー好きだろ。いつもうっとりしてすぐにぐにゃぐにゃになるもんな」 「いやらしい言い方せんといてやっ!ちょ、嫌やって、んんっ」 抵抗しても体格が違いすぎて逃げ切れるわけはなく、床に押し倒されてキスをされた。 かぶさる丈晃の熱い舌が口内を優しく愛撫して、汐月の思考を徐々に溶かしてしまう。 「...愛してる...汐月...」 流し込まれる甘い唾液を飲み込み、彼の背に手を回した。 「...丈晃...」 台所の床に触れる背中の熱と、初めて口にした愛しい名前。 幸せな重みに目を閉じた汐月は、このまま朝が来なくても怖くないと感じていた。

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