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第17話

台所で人が動く気配がしていたが、違和感に目を開いた。 丈晃の部屋に泊まった翌日の朝食は、前日のうちに買っておいたパンやおにぎりが多い。 丈晃が休日の週末ならば朝から味噌汁を作ったり準備をしてくれる事はあったが、これはどうやらパンが焼ける香りだ。 いつもなら和食なのに珍しい。と殆ど開かない目で起き上がった汐月は、台所に立つ姿をよく確認しないで後ろから抱きついた。 「今日はパンなん...?ふぁ...」 逞しい背中に欠伸を擦り付けたが、何かがおかしいと気がついた。 「も...元宮さん、おはようございますっ」 両手を離して上にあげると、ぱっちりと目を開いた。 「れ、...玲くんやったんか!あ、あはは、ごめんな!丈晃と間違えてしもたやんっ。オレ、寝惚けてたわ」 笑って誤魔化しつつ洗面台に向かって顔を洗った。 (危な...!無意識にちんちん触ってまう所やった...) 欲望に忠実な身体は無意識な時でもその積極性を失うことは無いらしい。自覚はしているが、昨夜仲直りが出来たことで浮かれ過ぎている。 「あ、あのっ。昨日は物凄くご迷惑を...。本当にすみませんでした!」 狭い台所の床に正座をした有坂は、額をぶつけるんじゃないかという勢いで頭を下げた。 「え?オレは何もしてへんよ。会った時にはべろべろやったし。玲くんもあんだけ酔ってたら覚えてへんのやない?」 さすがに歳下で同じ様な体格の彼に抱き上げられなんて、同じ男としてあまり嬉しくない。忘れてくれていると思ってそう言ったのだが、彼は頬を赤くして俯いてしまった。 「.....覚えてるタイプなんや...」 「す、すみませんでした!本当に...。黒澤さんの前であんな...。あの、もし俺が原因でお二人がぎこちなくなるようでしたら、俺を殴ってください!」 朝からなんて不穏な台所なのだろう。 だが、汐月が若かりし頃に周囲にこんな友達が一人でもいれば。そう考えかけてやめておいた。当時は、同性と寝る事に意味は無いと傷付けられた事を盾にして、自分も同じ様に振舞っていたのだ。 傷ついた事を隠して、つまらないと笑って見せる事で欲しい男は簡単に汐月を抱いた。 自分の振る舞いが環境を作る。 そういう事なのだろう。 「穏やかやないなぁ」 頭を床につけたままの有坂の前に座ると、最近はすっかり爽やかになった髪をぽんぽんと撫でた。 「大丈夫やで。オレや丈晃にとっては、玲くんは大切な友達や。ちょっと酔ってお巫山戯が過ぎたくらいで殴ったりせんよ」 「...はい。ありがとうございます。...あの、」 顔を上げた有坂の目は充血していた。 「これからもよろしくお願いします」 「...それは、こっちこそやけど。なにそれ、兎みたいになってるやんか」 「あ、飲むとなるんで平気です。元宮さん、パンはバターとジャムどっちがいいですか?」 「両方!オレ、鞄の中に使い切りの目薬あるねん」 大丈夫ですよ。と言う有坂を台所に置いて和室に戻ると、畳の上に放置された鞄を覗いた。 「あれ?入れてたはずやねんけど」 「んん...汐月...」 後方で寝ていた丈晃は目薬を探していた汐月の背中に被さると、体重をかけて押し潰した。 「ぐえっ!ちょ、重いっ!」 「おはセックスするか?」 目の開いていない丈晃は汐月のトップスの中に手を入れてまさぐり始めた。 「あほぉ!なにゆーて、」 「ちょっとだけだから」 「ちょっともないんや、目ぇ覚ましや!えろ髭っ」 キスをしようする丈晃の頬を押さえ付けている所に、有坂がパンを乗せた皿を手にして入ってきた。 「黒澤さん。俺が帰るまで待ってください」 「.......そうか。有坂がいたんだったな」 やはり寝惚けて忘れていた様だが、汐月も人の事は言えないので黙って足で押して離れた。 「黒澤さん。昨夜は本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「や、先輩方の悪ノリを止められなかった俺も悪いからな。気にすんな。誰しも経験ある事だ」 「.....はい。ありがとうございます」 二人が話しているうちにコーヒーを運んだ汐月は、とにかく食べようと声をかけた。 「元宮さん、今日出勤ですよね」 「うん。食べたら一回帰ってから仕事行く」 「ジャム美味いな」 「ここのメーカーのジャム、めっちゃ好きやわ。小学校の時にハマって朝昼晩食べてた事あったで」 「お前は昔からハマるとそればっかになるよな。んで、すぐに飽きてまた別のやつな」 「...そんなん、誰でもそうやろ」 「よくお前ちのおばさんが言ってた。安いときに沢山買っておいたのにって。それがうちに流れてくるんだ。だから、お前がハマった食い物は大体俺も把握してる」 「なんか偉そうで腹立つわ」 「あの、」 声を出した有坂に二人で顔を向けると、同棲はしないんですか。と言われた。 「.....はぁ?ど、同棲って、」 「ナイス、有坂。それだ。俺は汐月の世話をするのは好きだが掃除が好きなわけじゃねぇしな。さっさと一緒に住みゃいいんだな」 「そうすれば、休みが合わないお二人でも朝や夜は顔を合わせられますし」 「勝手に話進めんといてやっ。オレは今の部屋気に入ってるから引越しとか嫌やで」 何度か引越しを繰り返してやっと満足いく部屋を見つけることが出来たのだ。 入居して数年経過してるだけに、愛着がある。 「そうだ。大学ん時に仲良かった先輩が不動産屋に勤めてるんだったな。...連絡してみるか」 「善は急げですね」 何故か有坂までが汐月の話を無視している。 「そう言えば、黒澤さん。髭は剃ったんですか?」 「あぁ。イチャついてる時に髭が当たって痛いって苦情が凄くてよ」 予想していた汐月は手元にあった小さなトレイで丈晃の頭を叩くと、有坂に目薬を渡した。 「玲くん、これあげるからさしときや。朝ごはんありがとうな。またご飯行こうな」 にっこりと有坂に笑顔を向けた汐月は、去り際に丈晃に冷たい視線を向けて出て行ってしまった。 「...いい音しましたね。大丈夫ですか?」 「.....結構痛い。お前、分かってて言ったろ」 頭を撫でながら言うと、有坂は声を出して笑った。 「はっきり起きてた訳じゃないですよ。でも、夢の中に二人の声が響いてました。寝てるから見えてないはずなのに、黒澤さんに抱きしめられる元宮さんが見えて。.....幸せそうで可愛いなって思いました」 「なんだそりゃ。お前の夢の中だろ?」 「.....そうですけど、本当に適わないなぁって...。思い知るには充分でしたよ」 彼は皿を流しへと運ぶと洗い始めた。 昨夜の汐月とのやり取りは、恐らくほぼ聞かれてしまっただろう。 牽制の狙いがなかった訳では無いが、その背中はやはり辛そうに見える。 「そうだ。昨日やっと初体験もしたから、これから誰か新しい人を見つけます」 「...そんな簡単に切り替えられるもんじゃねぇだろうよ」 「はは、俺が諦めないと、黒澤さんは心配でしょう」 「あのなぁ。嫉妬はしても心配はしてねぇよ。あいつは俺の嫁だからな」 煙草をくわえて灰皿を引き寄せると、有坂が泡のついたスポンジを手に振り向いていた。 「.....なんだ」 「...いや、はぁ〜。そうか」 「なんだよ、気持ち悪いな」 「や〜、カッコイイ。黒澤さんて、元宮さんの事になるとランクアップしますね」 「俺は元々レベルは高い」 丈晃の言葉に笑いながら作業に戻った有坂の背中は、もうしっかりと背筋が伸びていた。 ここ最近の彼の変化は目まぐるしい。何度言っても長いままだった前髪も消えて、凛々しい瞳がきちんと見える。未だに女性社員や初対面の人間相手には緊張しているようだったが、仕事となると概ね問題ない。 (...恋は少年を青年にするのかね) 頭で呟いた自分の言葉に、汐月と離れて自覚したあの不安定な気持ちを思い出した。 自分自身が大人へと足を踏み出したのは、間違いなくあの瞬間だ。 幼い汐月へと向けていた感情が、知られてはいけないものだったと知った絶望感。 丈晃はもう必要ない苦い思いを煙草の火と共に灰皿で揉み消した。

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