25 / 34

第25話

駅から徒歩圏内で、尚且つ職場までは徒歩十分以内。 広いリビングと個室が二部屋。 築年数も浅い大きめのマンションは、単身者向きの部屋もあるらしい。 ファミリータイプの間取りも何種類かあるらしく、他の部屋も案内出来るけど。とバルコニーに出て夏の夜景を眺めていた汐月に、椎名が声をかけてきた。 前回バーで偶然顔を合わせた時にはあれ程挑発的だった椎名なのに、今夜は淡々と仕事を進めている。 「…オレ的にはここが良いですけど」 「夜景が見えていいでしょ。他の部屋は階下だから、空いてる中ではここが一番いいわよ」 「…そうですか」 後ろから話しかけてくる椎名には顔を向けずに返事をすると、浴室やトイレを見に行っていた丈晃が戻ってきた。 「汐月、ここが良くないか?」 「直感的にな。オレもそう思う」 バルコニーも広い!と出てきた丈晃は汐月の肩を抱いてきた。 「直感は大事だな。眺めもいいし、文句なしだ。湊さん、こんないい物件よく見つけてきましたね」 腕を組んで立っていた椎名は、手にしていたファイルを叩きながら笑った。 「このマンションの持ち主がね。ちゃんと世話をしろって言ってきたのよ。超がつくお得意様だから、それを言われると何も反論できないのよね」 「…持ち主?なんや、そんな人と知り合いなん?」 隣の丈晃の顔を見上げると、お前じゃねぇの?と彼もこちらを見ている。 「そんなどえらい人、知り合いにおらんで」 「あらら、何も知らないのね」 椎名は汐月に向かってそう言った。 「……オレ?」 「圭介よ。ここのオーナー。この間圭介のバーで会った時の私の態度を見て怒らせたのよ。ビジネス用の笑顔向けられてちょっと後悔したから、伊谷圭介様の指示通りのお部屋にご案内したの」 汐月は目を丸くして丈晃と顔を見合わせると、二人で椎名を見た。 「……圭介に気に入られてるって凄いのよ?あいつはあの見た目で柔らかな物腰だから色んな人間が寄ってくるけど、基本的に誰も信用しちゃいないからね」 足を踏み出した椎名の指が汐月の顎を掬い上げた。彼はリビングの明かりを背に汐月を見て薄く微笑んだが、それは以前のように不快を与えるものではなかった。 「良かったわね。圭介があんたのどこをそこまで気に入ったのか私も味わってみたかったけど、たけを怒らせてまでしたいとは思わないから諦めるわ」 「…何言うんか思ったらそれか」 椎名の手を叩いて離すと、楽しそうに笑い出した。 「本気で思ってるのに」 「尚更あかんやろ、それ」 「二人で盛り上がってるとこ悪いんだけどよ」 「どこが盛り上がってるねん!」 丈晃を睨んだ汐月は、彼が眉を寄せて不愉快そうにしている姿に気がついて口を閉じた。 「あの人との過去の話は聞きたくねぇな」 バルコニーを吹き付ける生温い風が、丈晃の不機嫌さを強くしたように感じた。 「湊さんも。俺の前で軽々しくそういう事言わねぇでくれますか」 「へぇ…。たけでもそんな風に睨んだり出来るのね」 長身の男が二人で睨み合うバルコニーには緊張感が漂っている。 「それは褒めてるんすよね」 「勿論よ。学生の頃は甘やかす事しか出来なかったのに、成長したものね」 「…そりゃあ、どうも」 「それでどうするの?元宮さんの元セフレが持ち主だと住めないんじゃない?」 「……汐月、ここでいいよな」 「え、あ、……丈晃はええの?」 思わず聞き返してしまったが、丈晃はいつもと変わらない笑顔を向けてくれた。 「こんな好条件な物件ねぇだろ。値段も立地も間取りも文句ねぇしな。お前が気に入ったんなら決めちまおぜ」 癖のある髪を乱して撫でてくれた丈晃の言葉に頷くと、不動産屋へと戻り契約の為の説明を受けた。 既に不動産屋も閉店の時間を過ぎていて、細かな手続きは後日のなった。 椎名と別れて夜道を歩きながら、夕飯は弁当を買って自宅で食べようと決めた。 「あっつ…はよ涼しくならんかなぁ」 額の汗を拭って夜空を見上げると、丈晃と行った祭りの夜店を思い出した。 「なぁ、汐月。美月から何度もメールが来てるんだ。一度向こうに行かねぇか」 二人の新居も見つかっていい気分でいたのに。と、汐月は眉を寄せて隣を歩く彼を見上げた。 「オレんとこにも姉ちゃんから連絡は来てるけど…。悪いけど、しばらく実家には帰りたないねん」 と言うか、実家の事を考えるだけで酷く憂鬱になる。 無意識に早くなる足運びにも、丈晃は離れずについてきた。 「お前、家族に何も言わずに俺と住むつもりか?」 「……え?…待ってや、いちいち許可取りに行くつもりやったん?」 「…そりゃあ、お前んちの家族は昔から知ってるんだし」 「いやいや、そんなんせんといてや。 昔から知ってるとかゆーても、何年も会ってへんかったやん」 「お袋とお前んちのおばさんとは定期的に連絡取ってたみたいだぞ。俺も詳しくは知らなかったけど」 話すうちに足が止まり、住宅街の真ん中で丈晃と向き合っていた。 「親とオレらは関係ないやんか。一緒に住む事も言わんといてや」 「関係なくはねぇだろ。俺はお前と結婚すつもりで一緒に住みたいって言っただろ。挨拶もなしにそれは出来ねぇ」 「…子供やないんやから、同居するのに親の許可とか必要ない」 「同居じゃねぇ。同棲だ。事実上の結婚だろ。俺はそのつもりでずっとお前を口説いてたんだ。それは分かってるよな?」 「……どっちにしろ、親に言われるんは嫌や。オレも言うつもりは無い。どうしてもって言うんやったら、同居は解消する」 ここまで言えば、丈晃ならば分かったと渋々でも諦めてくれると思った。そんな期待があった。 わざわざ両親に報告して汐月と一緒に住めないくらいなら、きっと諦めてくれる。 「…分かった」 予想通りの返事に安堵したが、丈晃は蒸し暑い夜を遠く思わせるような冷たい目をしていた。 「お前がその程度にしか考えてねぇって事は理解した。…悪いけど、俺は譲れねぇから」 立ち止まっていた汐月に背を向けた彼との距離が開いていく。 汐月は夜の闇に一人取り残され、そこから動けなくなってしまった。

ともだちにシェアしよう!