26 / 34
第26話
長居していた蒸し暑さも夜には身を潜める季節がやってきた。
夜は窓を開けていれば涼しいし、仕事上がりの帰り道も快適だ。
今日も勤務を終えて帰り支度をしていた汐月に、店長が困った顔をして話しかけてきた。
夏の終わりに纏めて取ろうとした休みを返上した事を、彼はとても気にかけている。
実家に帰るつもりもなく、休みが必要ない状況に陥ったのだ。
本来なら自分だけの時間を満喫していただろうが、あの夜から一切の連絡が来ない相手の考える隙間を作りたくなかった。
丈晃の方から不動産屋にも連絡を入れたのか、鬱陶しい相手からの接触もなくて何よりだ。
日が落ちるのが早くなった商店街を歩く汐月は、夏祭りの帰り道を思い出していた。
肌に纏わりつく湿気を含んだ空気も、彼がいたから不快ではなかった。
その気持ちは変わらない。あの夜の馬鹿なプロポーズもどきを思い出す度に胸の奥が痺れるのだ。
(あ、シャンプーもうなかったんよな)
思い出した時には普段利用するドラッグストアは通り過ぎていた。
確か、この近くに大型のホームセンターがあったはずだ。
すぐに見つかった店舗の看板を目指して歩きながら、この店舗にも一度だけ丈晃と入った事があることを思い出した。
高い天井から降り注ぐ照明が強く、店内はとても明るかった。
目当ての商品が並んでいる棚を見つけて、ぼんやりと商品を眺めた。
汐月は髪質の為にシャンプーのメーカーには拘りがある。だが、丈晃は物への頓着がなく泊まりに来た時にはいつも汐月のシャンプーを使っていた。
(短髪やのにしっとりさせるやつ使ってたんやもんな。ほんま無意味)
手にした詰め替えのシャンプーを見つめたまま、不意に涙が出そうになった。
慌てて周囲を見渡したが、背中を向けた店員が商品の補充をしているだけだ。
見られていないことに安堵して目元を擦ると、その店員の姿に見覚えがある気がして凝視した。
「…由人くん?」
「はい?…え、汐月くん!」
派手な色のポロシャツは店の制服の色だ。外で派手に光る看板と同じ色をしている。
「由人くんの職場ってここやったんか…」
「久し振りだね。ってか、勤務中に会うのはちょっと恥ずかしいなぁ」
照れ臭そうに笑う彼は元気そうだ。
「偶然やなぁ」
「暫く見かけなかったから会えて嬉しいよ。あのカッコイイ彼氏と上手くいってる証拠だよね」
「…ん?なに、何の話や」
満面の笑みで言われた言葉に丈晃は当てはまらない気がして聞くと、由人はゆっくりと首を傾げていく。
「…あれ?だって、酔っ払った汐月くんを介抱してたじゃん。俺が彼氏ですか?って聞いたらそうだって言ってたし」
丈晃をあのバーへ連れていったことは無い。だが、確かに最後に由人に会ったのはあのバーだ。
「背の高い若い人。ちょっとジェンダーレスな雰囲気の」
「も、しかして…。仲くんの事か。軽そうな大学生やけど」
「若いとは思ったけど大学生?やるねぇ、汐月くん!」
肘で汐月をつついてきた彼の声は大きかったらしく、少し離れた場所から由人と同じ制服を着た男がこちらを見ている事に気がついた。
「怒られるんちゃうの」
「わ、やば。ね、汐月くん、時間あるならご飯行かない?静樹は会社に泊まり込みなんだ。一人でつまんないなぁって思ってたからさ」
「待ち時間ないんならええけど」
「もう上がりだから。じゃあ、決まりだ!駐車場にあるベンチの所で待ってて。すぐに行くから」
目当ての買い物を終わらせた汐月は言われた通り駐車場の隅にあるベンチに座った。
優しく頬を撫でる風は冷たくて、気持ち良さに目を閉じて空を仰いた。
広がる濃紺の空にはいくつか星が輝いている。真夏の空よりも透明度のある空は美しい。
(…仲くんは元気にしとるんかな)
丈晃と疎遠になった時期に彼も大学が忙しくなったらしく、バイト先にはあまり来ていない。
周囲から一度に二人も口煩い人間が離れてしまったことで、何となく毎日の生活に張りが無くなっていた。
最後の人にしたい相手に去られたのだから、虚無感があって当然なのだが、淋しくはあっても悲しみのどん底に落ちている訳ではなかった。
幼い頃、丈晃が遠くへ引っ越してしまったあとの方が、断然辛かった。
毎日布団の中で泣いて夜を過ごしたあの苦しさは今でもはっきりと覚えている。
「お待たせ、汐月くん!」
小走りで出てきた由人は額に汗を浮かべている。慌てて来なくても逃げないのに。
「…可愛いなぁ、由人くんは」
「えっ、なに?」
「何もない。ほんでどこに行くん。誘ったからには美味しいとこ連れてってくれるんやろ?」
「それなんだけど、うちに来ない?」
彼は既に同性のパートナーと暮らしいている。二人だけのその空間に入るのは気が向かない。
汐月が黙ってしまった事にもお構い無しに笑顔を向ける由人は、手を掴んでベンチから立たせると歩き出した。
「母ちゃんがシチュー作ってくれてるらしくてさ。俺一人で食べきれないから、汐月くんが食べてくれたら助かるなぁって思って。ビールもあるからこのまま俺んちいこ!」
「あ〜、前にゆうてたな。由人くんのお母さんご飯作りにちょいちょい来はるんやんな」
「俺も静樹も料理は苦手だから助かるし、食費も浮くから」
彼の自宅に向かう道すがら、最近の暮らしぶりを聞いているうちに羨ましさが胸に滲んだ。
ゲイであることを隠さずに家族に話して受けいられているだけでなく、パートナーとの生活も応援されている彼は幸せ者だ。
過去にあの静かなバーで相談を受ける度にそう言い聞かせていたが、汐月のアドバイスは間違えてはいなかったと思える。
綺麗に片付けられていた彼の自宅にお邪魔してリビングのテーブルにつくと、すぐに冷えたビールが出された。
「シチューあっためるから、それ飲んでて」
「ほな、遠慮なくいただきます」
「あっ、グラスは?」
「いらんよ、お構いなく」
「…それで、どうなんだよ」
「ん?」
「若い彼氏の話!汐月くんは圭介さんに本気だと思ってたから、俺結構驚いたんだよ」
「……あ〜。それ彼氏やないから」
「もう別れちゃった?」
「最初から付き合ってへんって」
汐月はチビチビとビールを飲みながら仲との間にあった顛末を話して聞かせた。
「それってダメじゃん!酔っててわけわかんない所襲われたんだよね?」
「それはええねん。別に。エッチ自体は不快やなかったし、もう終わったことや。それに、仲くんには他に相手がおるしな」
「……汐月くんは?」
シチューとサラダの入った皿をテーブルに置いた彼は、向かいの席からじっと見つめている。
「…なんやの、変な顔してるで」
「最近汐月くんは来てないのかなって言ったら、圭介さんが汐月くんは恋人が出来たからって」
由人から聞かされて、あのバーで不動産屋の椎名に会った夜を思い出した。
「…俺、友達なのに何も聞かされてないなぁって思ってたんですケド」
「はは、淋しかったん?可愛いなぁ、由人くんは」
促されて遠慮せずにスプーンを手にした汐月は、シチューの中にある大きな人参を掬って由人の器に移動させた。
「あ!野菜は食べなきゃダメだって」
「ええやんか。じゃがいもは食べるから許してや」
「彼氏のことちゃんと教えてくれるならいいよっ」
汐月の手が届かない場所に皿を移動されてしまい、仕方なく息を吸い込んだ。
「確かに付き合ってたし同棲するかってとこまで進んでたんやけど、向こうが急に家族に話してからやないと住まれへんとか言い出して揉めてからは連絡ないから、あっちのなかではもう別れたことになっとるかもしれん。はい、説明したで。人参入れさせてや」
手短に素早く説明したのだが、由人は目を大きく見開いたまま動かなくなってしまった。
仕方なく立ち上がって彼の手元から皿を抜き、スプーンの中にいた人参を入れてやった。
「ごめん、ブロッコリーも好きやないねん。入れてもええ?」
「ど、ういうこと…?それって最近?」
「…まぁ、座りぃや」
客のくせにそう言ったが、彼は素直に椅子に座った。
自分のシチューの中から食べられない野菜を全て彼の皿に移動させ、スプーンを持ったままいただきますと頭を下げた。
ほとんど野菜を抜いてしまったが、シチューはとても美味しかった。
「家族に話してからっていうのは、二人でパートナーてして暮らす事を打ち明けなきゃダメって事?」
「そうやな。あっちとはチビん時にお隣さんやってさ。家族ぐるみで付き合いがあったんよ。うちのおかんとあっちのおばちゃんと未だに連絡取り合っとるし、オレの姉ちゃんもあっちとやり取りしとるしな」
「……そっか、汐月くんは家族に話してないのか…」
「そんな簡単にカムアウト出来るわけないやろ。オレもあっちも長男やで。オレは姉ちゃんおるけど、あっちはひとりっ子や。…そんなん、話せるわけないやろ」
「あ、お姉さんは?協力とかしてくれるんじゃない?」
「絶対に嫌や。姉ちゃんゆーても、あんな女に借りは作りたぁないねん」
大きなじゃがいもを咀嚼しつつ、彩のいいサラダの入った器は由人の方へと押しやった。
「…俺は兄弟いないからよくわかんないけど、弟のお願いならきいてくれるんじゃない?」
「そもそもな」
シチューを食べていたスプーンを由人に向けると、彼は顎を引いた。
「別に全部バラさんでええやろ。黙ってたって実家は遠いんやし、わからへんでそんなん。わざわざこっちから揉める原因ぶち込まんでも、平和に進められることやん。…オレには理解出来ん」
缶ビールを飲み干すと、由人が俯いてしまったことに気がついた。
「なんでそこで由人くんが落ち込むねん。そっちは順風満帆やろ?二人で住んでる所にお母さんがご飯作りに来てくれるくらいやねんから」
「……うちは問題ないけどさ。…俺はまだ静樹の家族に会ったことないんだ」
そう言えば、向こうの話は汐月も聞かされたことがない。
「オレんとこみたいに言いたくないって?」
「や、その…まだはっきりと聞いたことないからわかんないけど。…話してみて汐月くんみたいに跳ね返されたらどうしよ…」
汐月の言動は由人に向けたものでは無いのに、目の前でしゅんとした姿を見せられると、悪いことを言ってしまった気がしてくる。
「それは二人で考えてや。…でも、由人くんとこはオレの理想やから、上手いこといって欲しいなぁと思ってるし。何かあったら話くらいは聞くで」
顔を上げた由人は笑顔だった。彼はその後汐月の恋人に関しての話は聞いてこなかった。
世の中にはどうしようも無いことがある。きっと、彼も汐月も沢山のどうしよう無い事に遭遇する事が他の人より多くて、少し諦めが良くなっているのだろう。
それでも、幸せになりたい。
その為には適度に足掻くしかない。
汐月は当たり障りのない会話を由人と楽しんだ後、早めに帰宅した。
別れ際の玄関で笑顔だった由人は、不意に心配そうに眉を寄せた。
「俺さ、汐月くんの事好きだから、幸せだなって思ってて欲しい」
突然告げられた脈絡のない言葉だったが、そこに含まれたものは理解出来る。
「はは、ありがとう。オレも由人くんの事は好きやで」
照れ臭さを隠す様に彼の髪を手で乱し、文句を聞きながら幸せな部屋の扉を閉めて去った。
もしかしたら、汐月が一生叶えられない愛に満ちた空間。
僅かに広がる苦さを感じつつ、早足で夜道を歩いた。
ともだちにシェアしよう!