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第27話

その場で何となく感じた事は後になって正解だったことが多い。 そしてその正解を思い知る頃には後悔の文字に押し潰される。 朝に目覚めた時からチクチクとしていた感覚は、仕事を終える頃には誤魔化しようもない程思考を支配し始めていた。 気が向かないと感じた時には断るのが正解だ。 由人と別れて帰宅し、ベッドにはいる時には平気じゃないかと自分の状態に満足していたはずなのに、何故時間を置いて苦しくなるのだろう。 (由人くんは悪ぅないんや。オレの問題やからな) 彼とパートナーの生活空間に入り込んだ自分は異質だった。 お前には無理なんだと突きつけられるように、そこに居る時には目につかなかったことが後になってフラッシュバックしてしまう。 トイレを借りた時に目に入った洗面所。 並ぶ二つの歯ブラシ。種類の違う歯磨き粉。 帰り際、玄関まで見送ってくれた由人の履くスリッパはパートナーのものと色違いだった。 昨夜は景色のひとつでしか無かったそれらが、翌日の汐月の胸に痛みを広げている。 「元宮くん、今日は少し疲れてる?」 閉店作業をしていた汐月が他のアルバイト達から離れた時に店長が声をかけてくれた。 「大丈夫ですよ」 「そうかい?…明日の休みはゆっくりするんだよ。保留になってる休みはいつでも受け付けるからね」 「店長の心配性も年々酷くなってませんか?歳のせいですかね」 冗談を言って笑い合い誤魔化した後は素早く職場を後にした。 今日は真っ直ぐに帰るのはやめた方がいい。 やっと誰も訪れない部屋に慣れてきたところだったが、今夜はきっとテレビもつけることは出来ない。無音の部屋に響く外からの物音に耳を澄まして過ごすなんて絶対に嫌だ。 職場を出て走りながらパーカーを羽織った汐月は、通い慣れたバーを目指した。 焦げ茶色の重厚な扉を開いたカウンターに圭介の姿はなかったが、優しいマスターが迎え入れてくれた。 時間が早かったせいで店内にはまだ客がいない。 「お疲れ様です。元宮様」 温かいおしぼりを手渡してくれたマスターの声に安堵すると、急に空腹感が生まれた。 「今夜はまた早いですね」 「マスターに会いたくて走って来てん。いつもの野菜抜きのオムライス作れる?」 「かしこまりました。お仕事でお疲れの元宮様の為に愛情を込めておきます」 「めっちゃ嬉しい!たっぷり入れといてや」 先に出されたグラスビールに口をつけると一息に飲み干した。 カウンターにグラスを置いた瞬間を見られていることに気がついていたが、圭介と同様に気遣いの上手いマスターは黙って新しいグラスを置いてくれた。 「寒うなってきたけど、やっぱりビールは冷えてる方がええわ〜」 「私の作るオムライスにも合いますよ」 「うん、せやから食べたくなるんかな。人が作ってくれるもんて美味しいんよね」 「なら今夜は人参も入れますか?」 「急になんでそんな意地悪言うん。入れたら嫌やでっ」 「込める愛情が増えるかもしれないですよ」 「えぇ〜。ほんならいつもは目一杯入ってへんの?」 笑いながら拗ねた声を出してやると、皺を深くした優しい笑顔に胸の痛みが和らいだ。 「…老後はマスターみたいな人とおれたらええなぁ」 「急にどうなさったんですか。元宮様に私の様な者は勿体ないですよ」 「そんな事ないもん。マスターめっちゃ優しいやん。…笑った時に目がなくなるんめっちゃ好きやで」 「お褒め頂き光栄です」 手際よく卵を割る様子を眺めていたが、空きっ腹に入れたビールが回ってきたせいで黙っていた。 彼は調理をしつつ、何度か音を出した店の電話に対応したり、携帯を操作したりしていた。 真っ白なシャツに黒いベストとネクタイは、柔らか照明によく映えている。 アルコールで思考が不安定になってくると、色んな事がどうでもよくなるものだ。 「…マスターはさ、プラトニックラブとかって信じる方?」 「それは性的欲望を伴わない愛情はあるのかと言う事ですかな?」 バターの香りが漂い、カウンターの中から汐月の前にオムライスの皿が置かれた。 黄色いキャンパスにはケチャップでハートが描かれている。 「そう。エッチなしで愛し合うみたいなん…。って、ハート?」 何度も彼にはオムライスを作って貰っているが、こんなサービスは初めてだ。 「今夜は少しお疲れのようなので、私からの愛情です」 優しい心遣いに嬉しくなると、白髪の彼の姿もとても好ましく感じてくる。 「ヤバい…。オレ、マスターとやったらエッチなしでもええかも…」 二人だけの空間という状況も相まって一人で盛り上がっていたが、後ろから伸びてきた手に顎を掴まれて驚いた。振り向かされた先には圭介が立っていて、汐月の鼻孔に彼の甘く優しい香りが広がる。 「け、圭介さんっ」 「俺のいない所ではそうして他の男を口説くの?」 言葉だけでなく彼の声音や目元も魅力的で、反射的に彼に抱きついた。 「圭介様をお待ちになられている間のお戯れですよ」 「そう?かなり本気に見えたけどね」 圭介の三つ揃いのベストに顔を伏せていたが、二人のやり取りの隙間で冗談を合わせられなかった。今顔を上げたら泣いてしまいそうで、唇を強く噤んでいた。 「…汐月くん」 圭介の手のひらが汐月の後頭部を包むように撫でた。 「オムライスが冷めてしまうよ」 「……ん、食べる…」 涙は堪えたが、代わりに鼻水が出そうになった。 鼻を啜りながらマスターが作ってくれたオムライスを食べている間、三人だけの店内には静かにジャズが流れていた。 マスターはいつも通り仕事をしていて、圭介は黙って食事をする汐月の隣で煙草を吸っていた。 最後の一口を口に入れたところで、圭介が灰皿に煙草の灰を落とした。 「今夜は予定があったんだけど、フラれたかもしれないな」 磨き込まれたカウンターの上に置いていた携帯をちらりと見た彼は、艶のあるその瞳を汐月に向けてきた。 「…圭介さんがフラれるとか有り得へん…」 「はは、普通だよ。…彼は別の男を選んだんだろうね」 「え、えっ?それって、圭介さんが本気やったって事?もしかして、前から噂になって相手の事ちゃうの?」 思わず身を乗り出して彼の肩を掴むと、薄く笑いながら煙草の火を消した。 「ん〜。俺は結構本気で離したくないって思ってたんだけどね。あまり伝わってなかったのと、俺が好みじゃなかったって感じかな」 「…ほ、本気…やったん…」 「そうかもね。…今夜は一人で居たくないんだけど…」 至近距離で汐月を捉えた瞳は甘い香りの中に濃厚な夜の色を滲ませている。 美しい指が汐月の頬を撫で、耳朶を刺激する。 「…オレでもええ?」 「……汐月くんは優しいね」 彼の肩に置いていた手が彼の手に包まれ、指先にキスを受けた。 きっと、彼は気がついているのだろう。一人で居たくないのは汐月の方だと。 今夜は抱いてくれるなら誰でも良くて、投げやりな気持ちになっている事も、優しい彼にはお見通しだ。 「じゃあ、今夜は汐月くんが俺を甘やかしてくれる?」 無音の部屋に存在意義を見い出せない汐月にとって、圭介の言葉は救いにしかならなかった。

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