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第28話
覚えているかなんて問われなくても、忘れるわけが無い。けれど、彼はそんな無粋な質問は投げかけずに先に汐月を浴室へと促した。
肌触りのいいバスローブに身を包んだ汐月は、都会の夜を独り占めする様なガラスの額縁に収められた夜景を見下ろしていた。
身体を繋げる為に自分で準備をする事が久し振りだと考えてしまったが、二度目の分不相応な豪奢な部屋を見渡して振り払った。
(…この部屋一泊でいくらするんやろ)
初めて圭介と二人だけの時間を過ごす時にも頭の中で呟いたかもしれない。
二度目以降はここまで高額なホテルではなかったが、彼はいつも他の相手とでは経験できないような空間へと汐月を連れて行ってくれた。
「眠い?」
大きなベッドで横になっていた汐月は、シャワーを終えて出てきた彼の声に起き上がった。
「まさか。お子様やないで」
「いいワインが冷えているけど。汐月くんは苦手だったね。他のものにしようか?」
汐月のものと同じ備え付けのバスローブを身につけているのに、濡れた髪や水滴をつけ首筋が見えてじわりと腹の奥が熱を持った。
「そんなんいらん…」
ベッドのそばに立っていた圭介の手を掴んで引き寄せ、押し倒して乗りあがった。
珍しく少し驚いた様に見開いた彼の瞳はとても美しく、都会の夜景よりも透明感を漂わせている。
汐月は自分からキスをしようと動いたはずなのに、彼の胸に顔を寄せていた。
(…自分からする時って、今までどないしてたっけ?)
相手を煽る為に計算しながら触れて、態度でその気にさせ翻弄し楽しむのが常だった。圭介相手にそれが上手く効果を出したことは殆ど無かったが、抱いて欲しくて舌を出せば可愛いと褒めてくれた。素直になれば褒美を与えるように優しく意地悪に抱いて貰えたのに、ここにきて次にどう動けばいいのか躊躇してしまう。
「…確か四回は知っているはずなんだ」
「え?」
突然話し出した圭介に思わず顔を上げると、彼はこちらを見て優しく微笑んだ。
「汐月くんが恋人と別れて悲しそうにする姿を見た回数だよ」
「そう…やった?」
「終わった事を思い出させてごめんね。でも、俺はちゃんと忘れられる汐月くんが好きだよ。泣いたり怒ったり、悔しそうに文句を言っても、きちんと終わりに出来る。それは難しい事だって俺はわかるから」
話しながら髪を撫でた彼の手が汐月の背中に置かれた。
「だからこそ、今回は違うってわかるんだ」
「……今夜はオレとエッチしてくれるんちゃうかったん?」
圭介の身体の上から顔を覗くと、誤魔化すように頬にキスをされた。
「汐月くんは相手がいる時に浮気はしないよね。俺も特定の相手がいる子とはしないよ。痴話喧嘩に巻き込まれるのは嫌だしねぇ」
「なんもしてへんくても、ホテルで一緒におったらもうアウトちゃうの?」
「それは人によって線引きが違うから。俺の中ではギリセーフかな」
ベッドの上ではどんな我儘も受け入れてくれる彼には不似合いな気がして驚いた。
「相手によるけどね。…どんな恋愛もセックスもそれぞれだと思うけど、君に投げやりな夜は似合わないよ」
「……なんでわかったん。オレが…そんな気持ちになってるって…」
「そろそろ付き合いも長いからね。それに、俺は大切な子としか繰り返し寝ないよ」
圭介は汐月を乗せたまま身体を動かせ、ベッドに横にして抱き締めてくれた。
「それ、ちょっと自慢やってん。…圭介さんは簡単に誘いにはのらんし、殆どの子は二回目がないやん。でも…オレは結構何回かあるし」
「…汐月くん。痛い時は痛いって言っていいよ。君が泣き虫なのは知っているし、俺は軽蔑しない」
誰もが羨むようなラグジュアリーなホテルの一室で、不思議な感覚に陥っていた。
バスローブ越しに伝わる圭介の体温と心音は、ずっと本音を閉じて隠していた汐月の頑なな部分を柔らかくしていくようだ。
「俺も今夜は一人が少し寂しかったんだ。お互い様だから、一緒に寝てくれると嬉しいんだけどな」
涙が滲んでいた汐月は、圭介の体に腕を回して力を入れた。
「…っ、しゃあないから添い寝したげるわ!オレも…一人でいたくなかってん。せやから、これはウィンウィンやもんな…」
涙声になってしまったが、圭介はありがとうと一言呟くと、汐月が泣き止むまで髪を撫でてくれた。
「めっちゃ美味しかった…!」
朝から自分でも驚く程の食欲があり、テーブルに広げられた豪華な朝食を存分に楽しんだ。
「質のいい睡眠のお陰かな」
シャツとスラックスだけのラフな姿でコーヒーを飲む圭介は、胸元のボタンを少し開けていて朝だというのに色気を漂わせている。
膨らんだ腹を撫でながらガラスの向こうに広がる朝の都会を見下ろすと、爽やかな朝日に照らされる景色のように胸の奥の靄が薄くなっていた。
「思ったより沢山食べたね」
「こんなに美味しいゆで玉子初めて食べた!めっちゃオレンジ色の黄身やったよね」
「初めてこの部屋に君と泊まった翌朝も、同じメニューだったんだけどね」
「え?…オレこのゆで玉子食べた?こんなに美味しかったら忘れるわけないと思うねんけど」
汐月の言葉に楽しそうに笑い出した圭介は、煙草を取り出した。
「君が可愛くて少し激しくし過ぎたから、朝は食べられなかったんだよ。ベッドから立つのも難しかったの、覚えてない?」
そうだった。朝方まで汐月の中から離れなかった圭介のせいで、汐月がようやく自力で歩けるようになったのは昼を回ってからだった。
「…思い出した…」
「シーツに潜り込んだまま出てこない汐月くんが、真っ赤な顔で立てないって言った時の可愛さは忘れないよ」
「わ、忘れてや、そんなん!恥ずかしなってきた…」
「もう何年前かな。まだ初々しい君が愛らしくて止められなかったんだよね」
「…圭介さんも朝まで腰振ってたのに、なんであんなに体力あるん…?」
「若かったからかな」
「それとエッチはまたちゃう気がするねんけどなぁ」
煙草をくえたまま立ち上がった圭介は、汐月の髪を撫でると出かけようと言った。
「どこに?」
「今日は休みだろう?俺の用事に付き合ってくれると嬉しいな」
汐月は素直に頷くと寝癖で鳥の巣になっていた髪を整えた。
人気のある老舗百貨店と言えど、平日の午前中は静かだ。
贈り物を選びたいと言う彼と二人で足を踏み入れると、スーツ姿の従業員が圭介を見るや否や駆け寄ってきた。
どうやら百貨店でも顔が知れているらしい圭介は、案内をつけると言われていたが断った。
「一人の時は専用の個室で買い物を決める時もあるけど、今日は汐月くんのとデートだからね」
長いエスカレーターの上でそう言った彼は、やはり汐月とは生きる世界が違うようだ。
(個室て何?なんかテレビで見たことあるけど、あれってほんまの事なん?)
プライベートな事は謎に包まれた彼だが、聞けば答えてくれるのだろうか。
今まではそこに触れるともう相手にして貰えないんじゃないかと避けていたのだが。
「…圭介さんて、お金持ちの人なん?」
「…ぷっ」
顔を逸らして吹き出した彼は、クスクスと笑っているだけだ。
「ちょ、なに?なんで笑うん?」
「あはは、本当に可愛いね、君は」
笑いながら髪を撫でた彼は、汐月の手を取って繋いだ。
そのまま手を引かれて歩き出したが、離されない手が気になって周囲を見れない。
「…圭介さん、手ぇ…」
「揃いのパジャマはどうかな」
視線を上げた先には男女ペアになったリラックスウェアが並んでいた。
よく見ると周囲は結婚祝いの贈り物らしき商品が並んでいる。
「…結婚のお祝い選ぶん?」
「あぁ、学生の頃の恩師なんだけどね。今度会うことになったんだ。どうやら再婚したようだし、一応ね」
プライベートすら謎の彼に学生時代なんて不似合いな気がして目を丸くすると、圭介は少し照れくさそうにした。
「散々世話になった先生なんだ」
「想像できひん…」
「何が?」
「圭介さんがやんちゃしてた学生時代とか。え、それって高校生の頃の話?」
「やんちゃって…。まぁ、そうだけど。結構普通に不真面目な学生だったよ。汐月くんはどうだった?」
目の前の棚に並ぶパジャマの生地を触りながら問われ、普通。と答えた。
「そう、普通ね」
初めてできた恋人と淫らな高校生活を送っていたせいで、復唱されてしまうと落ち着かない。
「ほんまに普通やで」
「あれ?でも高校の時に初めての彼氏が出来たんじゃなかった?」
「分かってて言うの卑怯や…」
「かなり乱れた性生活だったのかな」
こんな場所でする話題ではない。汐月が頬をふくらませると、繋がれていた手が離された。
人が近付いてきたせいで離されたのだと理解したが、何故か圭介は汐月を背中に隠すように立っている。
「…なにか?」
圭介の向こうに立つのは女性の様だ。顔は見えないが長い髪が見える。
「突然すみません、あの…。お連れの方が知り合いに似ていらしたんで思わず声をかけてしまって」
聞こえた声よりも、その話す言葉のイントネーションに気を引かれた。
圭介の後ろから顔を出すと、目の前に立っていた上品そうな女性は大きな声を上げた。
「あ、やっぱり、汐月ちゃんやわ」
記憶の中の彼女よりもふっくらとして皺も増えていたが、その優しい声と笑顔は間違いようがない。
「…おばちゃん?たけちゃんのおばちゃん?」
「そうやで。まさかと思ったんやけど、ほんまに汐月ちゃんや。元気にしとった?」
彼女は汐月の手を取り両手で握り締めると、目を細くた。
まさかこんな場所で再会を果たすとは思わず困惑していたが、皺が深くなった目尻を涙で濡らしているのを見て更に驚いてしまった。
「汐月くん。俺は少し見てくるから、この階にあるカフェにご婦人と行っておいで」
「えっ」
「お買い物のお邪魔してしもてすみません。私はもう行きますので、お気遣いなく」
慌てて何度も頭を下げていたが、圭介は丈晃の母に微笑んだ。
「いえ、こちらこそ。私の買い物に同行してくれていただけなんですよ。まだ時間が掛かるのでお二人でお茶を飲んで来てください」
圭介は汐月にだけわかるようにウインクをすると行ってしまった。
(どこででもあんなんやねんな…)
「汐月ちゃん、ごめんね。おばちゃんお邪魔してしもて…」
「大丈夫やで。おばちゃんが時間あるんやったら、ちょっとお茶しよか」
急いでいるからという返事を期待したのだが、彼女は目尻の涙を拭って喜んでくれたので二人で移動した。
圭介に勧められたカフェで向かい合わせに座った所で突然年齢を聞かれたが、素直に答えた。
「そう…汐月ちゃんは28になるん。そらそうやんね、丈晃も34やもんねぇ」
今朝やっと落ち着き始めていた胸の奥が、小さな痛みで疼き出す。
「お母さんから聞いてるかもしれんけど、おばちゃん、お母さんとは時々連絡取り合ってたんよ。汐月ちゃんが立派な大人になってるのも聞いてたんやけど、実際に会ったらビックリやわぁ」
運ばれてきたコーヒーにミルクを入れて混ぜながら笑ってみたが、上手く笑えているだろうか。
「オジサンになっててビックリした?」
「なにゆうてるの。ちぃさいころから可愛かったけど、今でも変わらへんよ。せやからビックリしてんよ」
「あはは、ありがとう。おばちゃんも変わらへんね。うちのおかんと違って、やっぱり綺麗やわ」
「恥ずかしいわぁ。昔よりだいぶ太ってしもたから、おばちゃんやて気付いてもろて嬉しかったけど」
丈晃と同様、彼女の事は大好きだった。汐月の母とは正反対で、優しい話し方でいつも笑顔でいる彼女にはよく甘えていた記憶がある。
「オレはおばちゃんの事大好きやったし、わかるに決まってるやん」
熱いコーヒーを一口飲んでソーサーに戻すと、目の前の彼女の顔から笑みが消えていた。
「ほんなら、おばちゃんのお願いきいてもらえる?」
いつも笑顔でいるせいか、彼女の真剣な瞳に見つめられることは少なかった。長らく会っていなかった事と重なり、一瞬別人のように感じて身構えた。
「うちの丈晃とは、はよぉ別れてくれへんかな。あの子、汐月ちゃんと結婚したいとか訳の分からへんこと言い出してね。おばちゃん、ほんまに困ってるんよ」
ゆっくりと、汐月の視界が光をなくしていく。
聞かされた内容に汐月が反応出来ないでいると、彼女はそのまま思い出話を続けているかのように話した。
「汐月ちゃんもお母さんから聞いてると思うねんけど、おばちゃんらはこっちに引っ越してからすぐに離婚したんよね。おばちゃんには丈晃しか子供はおらへんし、ずっと二人で頑張って生きてきたから、あの子がいいお嫁さんもろてくれるんを楽しみしてたんやけど」
丈晃と再会した時から話題には出さなかったことだ。
確かに、母から聞かされてはいた。
丈晃の両親は引っ越した後に離婚したと。そもそも、父親の仕事の都合で引っ越したのだから、それならば引越し損じゃないかと子供ながらに腹が立ったのだ。
大人のつまらない都合に振り回されて、丈晃と引き離されてしまった。
悔しくて仕方なくて、話してきた母に八つ当たりをした記憶がある。
「久し振りにご飯一緒に食べてたら、汐月ちゃんと夫婦になるから了承して欲しいやて。そんなん、出来るわけないやんねぇ。男同士で結婚とか、子供も出来ひんのに意味あらへんやんか。せやから、おばちゃん困ってるんよ」
言われなくても、理解している。
だからこそ、誰の許可もなくても二人の気持ちがあるならばそれでいいと丈晃には言ったのだ。
彼の事を想うならば、受け入れるべきではなかった事も理解しているが、どうしても欲しかった。
幼い頃から憧れていた彼との、新しい関係性と愛情を独占したいと願ってしまった。
それによってもたらされる状況を予測していながら、どうしようもなく彼を愛してしまった結果だ。
「汐月ちゃんは、昔からおばちゃんの言う事はちゃんと聞いてくれるもんね。丈晃にはおばちゃんからゆうとくから、別れてくれるやんね」
幼い頃に、丈晃の帰りを待つ汐月と一緒によくテレビを見ていた。
面白いね、これ。
そう言って笑いかけてくれる彼女の笑顔は今も変わらないのに、泣きたくなるほど怖い。
(…ごめん、たけちゃん…)
大切な人の家族を悲しませたくはない。
汐月はゆっくりと息を吸い込んで視線をあげると、真っ直ぐに丈晃の母を見つめた。
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