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第29話

クラスメイトから借りたんだ。 そう言って少し照れくさそうにした彼は、後ろに撫でつけた髪を隠す様に顔を逸らしてしまった。 見たことが無い姿に夢中になっていた汐月は、丈晃の顔を追うように彼の前へと周り、間近で正面から改めて彼の晴れ姿を凝視した。 「汐月、あんまりジロジロ見んといてや。…ちょっと恥ずかしいんやって」 中学に上がってからぐんぐんと身長を伸ばす丈晃と、まだ小学校低学年の汐月との身長差は大きい。 だが、下から見上げてみてもその凛々しさは感じ取れた。 艶のある真っ黒な生地のスーツに真っ白なネクタイと、ジャケットの胸ポケットには真っ赤な薔薇の造花がさしてあった。 「…たけちゃん、王子様や…。めちゃくちゃかっこええ…!」 「ほんまやわぁ。なんのお芝居か知らんけど、男前やないの」 母は丈晃を褒めながら背中を叩いていて、汐月と視線の合った彼はニッコリとわらってくれた。 「変やない?」 「全然!全然!」 ぶんぶんと顔を横に振って答えると、頭振りすぎや。と笑われた。笑顔はいつもの彼と同じなのに、着るものと髪型が違うだけでこんなにも違うのか。永遠に眺めていたいくらいだったのに、もうすぐ劇が始まるからと、丈晃の教室から体育館へと移動した。 移動途中の廊下には楽しそうにはしゃぐ中学生達がいて、汐月は母に手を引かれながら異世界に紛れた様な気分でドキドキとしていた。 「なぁ、お母ちゃん。お祭りみたいやなぁ」 「そらそうやわ。文化祭やから、お祭りと同じやで」 夏祭りのように綿菓子や金魚すくいをしている屋台はないのに、同じなのか。 「暗いから足元気をつけや」 体育館の出入口には暗幕が掛けられていて、重いそれをよけて中に入ると足元が見えないくらい暗かった。 体育館の窓を全て締め切っているせいか、埃っぽい匂いがした。 並べられていたパイプ椅子に母と並んで座ると、母が座る向こう側に丈晃の母が来たようだ。姿はあまり見えないが声が聞こえる。 「おばちゃん、たけちゃんめっちゃカッコ良かったで!」 母の膝に手をついて言うと、声がでかいと頭を叩かれた。 「よそのクラスがお芝居してはるやろ。黙って待っときや」 そう汐月に言ったくせに、母はずっと丈晃の母とお喋りをしている。 仕方なく舞台の上を見ていたが、途中から見始めたのと、台詞がよく聞こえなくて分かりにくく、つまらない。 「ほんま、クラスの女の子らみんなたけちゃんの事見てはったわ」 「見間違いちゃうの?あかんで、丈晃は」 それには汐月も気がついていた。丈晃の同級生の女子達は、やたらと数人でかたまって丈晃の方を盗み見しながらコソコソと話していた。 「ほんまに羨ましいわ。たけちゃんくらいの男前っぷりが汐月にもあったらええのになぁ」 丈晃が男前だと言うのは同感だが、汐月は丈晃のようになりたいとは思っていない。 「汐月ちゃんは可愛いからそれでええのんよ。おばちゃんの天使さんやもんね」 こちらに向けて話しかけてくれた事が嬉しくて笑顔で返事をすると、再び声がでかいと頭を叩かれてしまった。 「あんだけモテてたらお嫁さん選ぶん大変になるで」 「そんな幸せな事になればええけどねぇ。…せやけど、結婚したら手元離れてしまうやん」 「またそれゆーてるん。たけちゃんももう中学二年生やろ。そろそろ子離れしなあかんで」 「…でも、うちは一人っ子やから。離れるんは淋しくてまだ考えられへんわ」 「そんなもん?…うちはもう、はよ家出て独立して欲しいけどな」 母が持ち出す話題にイライラするのは、汐月こそが丈晃のお嫁さんになりたいと思っているからだ。 先程見た王子様のような素敵な彼に、優しく抱きしめられたいと願っている。 それが普通でないことも、家族の誰も望んでいないことも理解しているが、ごく自然にそう願うようになったのだから仕方がない。 「たけちゃんにお嫁さんきたら、娘が増えるやんか。ほんなら淋しくなくなるよ」 「…私は、結婚したら相手の子に取られると感じてしまうから、仲良くは出来ひんかもしれんなぁ」 「今から鬼姑になる予定になってるん?」 汐月の母は笑っているが、丈晃の母の声は冗談で言っているようには聞こえなかった。 「あ、もう始まるで」 丈晃は舞台の上でも輝いていた。格好良くて優しい丈晃は、将来汐月が知らない可愛らしい女の人と結婚するのだろう。 お芝居はやっぱり台詞が聞き取りにくくて、一体なんのお話なのかわからなかったが、最後の結婚式の場面で滲む涙を堪えながら見ていた。 懐かしい夢を見た。 丈晃が演じた役柄や芝居はほとんど覚えていないのに、暗くて埃っぽい空気の中で感じた胸の痛さだけは記憶している。 8歳にして恋の苦さを味わっていた自分は、おませさんというやつだったのかもしれない。 まだ頭に残る夢を反芻していたが、今このタイミングでこの夢を見たということは、汐月自身も逃げるべきじゃないと考えているということだ。 「…決めた以上は全力でいくで」 朝の洗面所で鏡に向かってそう呟いた。 癖毛が寝癖のせいで鳥の巣の様だったが、彼女はいつも汐月の髪を可愛いと褒めてくれた。 汐月の胸の中には沢山の思い出がある。そのどれもが宝物で、傷付いて膝を抱いていた時にも励みになってくれた。 気合を入れて歯磨き粉を手にした汐月は、いつもより多く歯ブラシの上にそれを出した。 職場にある狭い屋外喫煙所で錆びたベンチに座っていた丈晃は、爽やかな青空を見上げながら煙草の煙を吐き出した。 雲ひとつない空に白煙がもやをかけているが、秋の空は澄んでいて美しい。 「黒澤さん」 隣に腰かけたのは有坂だ。空を見上げている丈晃の膝に缶コーヒーを置いてくれたようだが、作業服越しに熱が伝わってきて、改めて季節の移り変わりを感じた。 「言いつけを守ってるのもおかしいんじゃないかと思うんで、今夜にでも元宮さんに会いに行ってきますね」 「…会うなとは言ってねぇよ。そりゃまぁ、俺が会えねぇのに、お前だけ一緒に飯食うとかムカつくから嫌だけどな。…俺の話だけは伏せといてくれると有難い」 覆い隠していた感情でしか無かった幼馴染への初恋は、当の本人に浄化された。彼と気持ちを通い合わせることは本当に幸せで、人生を終える時も彼と過ごしたいと願った。 だからこそ結婚という形を願ったのだが、まさかこんな展開になるなんて。 「格好つけて家族の祝福がないとダメだなんて言い放っておいて、それが自分の身に全て振りかかった気分は堪能しましたか」 コーヒーを飲みながら告げる有坂の声は淡々としていて、丈晃を追い詰めているように感じた。 「汐月に会いてぇ…」 「会えばいいじゃないですか。意地を張ってないで、お前の家族より俺の方がダメだったって言えばいいでしょうに」 「…有坂、お前。少し前までは他人が口を出す話じゃないからって見守っててくれたんじゃねぇのかよ」 「長過ぎます。普通ならそんなに放置されていれば他の人のところにいきますよ」 「……普通がわかるのかよ」 「俺の普通はラノベの世界の中ですが」 「…当てにならねぇだろ」 「元宮さんは可愛いです。いつでも笑顔で、太陽のように元気をくれる。そんな魅力的な人を周りが放っておくと思いますか?…ましてや、突き放しておいて連絡もしていないから、もう元宮さんの中では別れたことになっているかもしれないでしょう」 珍しく饒舌な有坂に驚いて姿勢を正すと、彼は膝の上で缶コーヒーを両手で包んで俯いていた。 「……せめて、待っていて欲しいと伝えたいです」 予想外に動けなくなってしまった丈晃を見ていて、彼なりに考えてくれたのだろう。その気持ちが嬉しくて頭を撫でてやると、手を払われてしまった。 「…あっ、す、すみません…っ」 「謝るなよ。いい歳した男がおっさんによしよしされちゃ不快だろ」 汐月のことばかり考えていたせいで、つい手が動いただけだ。 「……や、気持ち悪くは無いです」 「ハッキリ言うな。ちょっと傷付く」 「だから、気持ち悪くないって言ったんです」 言い返してきた有坂の頬が少し赤くなっている。 「…あ〜、ほら。お前こそどうなんだ。チャラい君とまだ遊んでるのか?」 ふと思い出した彼のことを口にしたのだが、彼の表情の変化が薄くなった。 「大学が忙しいみたいであまり会ってません。…バイトも今は殆ど休んでるみたいですし」 「そりゃ、淋しいな。毎日の様に飯食いに行ってたろ」 また手が伸びそうになったが、その手で煙草を灰皿に押し付けた。 「……黒澤さんも知ってると思いますけど、俺…友達いません」 缶コーヒーのプルタブを引いたところだったが、黙ってそれを口に運んだ。 「いなかったんです。でも、今は…凛太郎くんと元宮さんは大切な友達です。それに、班長に対して失礼ですけど、黒澤さんもその枠にはいります。…元宮さんに対してはわかるんです。好きだったけど、今は友達としての感情しかないって。でも、ほかはよく分かりません。…友達と恋愛の境界線って、なんですか?」 「境界線なぁ…」 胸を苦しくさせるあの感覚が恋だと気が付いた時にはもう特別だった。何一つ理屈をつけて言えることは無い。 「そんなもん、別いらねぇだろ」 けれど、頭で考えるより先に心と身体がきちんと反応する。 晴れ渡る秋の空に愛しい彼の姿を思い浮かべるだけで、また前を向けるのだから。 「お前自身が、どうなりたいかでいいんだよ」 友達でいたいのか、特別になりたいのか。 自分に嘘はつけないはずだ。 「偉そうに言ったから、俺も自分に素直に動くしかねぇな」 昼休憩の終わりのベルと共に立ち上がった丈晃は、歩きながらもう一度空を見上げた。

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