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第30話
勇気をだして誘ったまではいいが、待ち合わせ場所に辿り着いただけでもう心臓が口から飛び出そうだった。
彼女が姿を現してからまだ三十分も経過していないだろうに、お好み焼き屋の席に座った汐月は疲労で目眩がしていた。
「ここのお店に来るん久しぶりやわぁ。汐月ちゃんと来れるやなんて思わへんかったよ」
嬉しそうに微笑む丈晃の母は、汐月がよく知る優しい笑顔を浮かべている。
「あ、来たことあるお店やった?」
歳上のご婦人を誘うなら料亭の方が良かっただろうかとかなり悩んだのだが、彼女の好きなお好み焼きに決めた。
「初めての時は家族三人やったけど。別れてからは丈晃と時々来てたんよ。汐月ちゃんはここの近くで働いてるんやろ?今まで会わへんかったんが不思議やねぇ」
「…うん、ほんまに…」
丈晃の父の顔は何となく記憶にある。丈晃とよく似て背が高く、紳士という言葉が似合う優しげな男性だった。
(…モテたんやろなぁ)
「汐月ちゃんは相変わらずお好み焼きしか食べられへんの?」
焼きあがったお好み焼きが並べられるのを見ながら頷くと、ころころと笑われた。
「お母さんに言われてたよね。お野菜食べへんからチビさんなんやて」
彼女は昔から所作がゆっくりで優雅だ。それも同じで、汐月は徐々に落ち着いてきた心音のお陰で箸をもてた。
「野菜は関係ないやんなぁ。オレがちびちゃいのは家系やで。おとんもおかんもちっさい方やん」
「小さいんやないよ。控えめて言うんやで」
二人で笑いながら焼きたてのお好み焼きを頬張っていると、子供の頃に戻ったような気分だ。
時の流れに容姿が変化しても、彼女はやはり丈晃の母だ。
「…おばちゃん」
彼女が返事をする前に、汐月は取り皿に箸を置いた。
夕食時の店内は客が多く、あまり小声だと彼女に聞こえないかもしれない。
「…どないしたん?」
どこからどう話せばいいのか、もう何時間も考えた。どれだけ集中しても最後に残るのはたったひとつだと確認した以上、誤魔化す訳にはいかない。
「……オレは…チビやからゲイになったわけやないねん」
「…うん、そうやろうねぇ」
彼女も取り皿に箸を並べて置き、真っ直ぐに汐月に向いた。
「…気がついたらもう…、た、たけちゃんのこと、そういう意味で好きになってしもててん。オレ、子供やったけど、何となくそれはあかん事なんやって言うのは知ってた。せやから…、引っ越して離れたあとは忘れなあかんと思ってたし、他の人とも…付き合ったりしてん」
話す声は大きすぎやしないだろうか。自分がホモだと言われるのは構わないが、彼女が変な目で見られるのは嫌だ。
「………でも、夏に再会して…、その…やっぱり好きやなぁって、思ってしもてん…」
きちんと顔を見て話そうと心に決めていたのに、視線は落ちていき彼女の取り皿に乗ったお好み焼きしか見れない。
「…でも、たけちゃんに親不孝なことは…して欲しくないから…」
「せやから、この間はうんてゆーたん?」
百貨店の中の喫茶店で話をした時、突きつけられた彼女からの願いに、汐月は声を出さずに小さく頷くしかできなかった。
「ほんまは嫌やったのに?」
「……ご、ごめんなさい…」
もう、自分の取り皿しか見えない。食べかけで放置されたそれは、汐月の指先のように冷えている。
「そのごめんなさいは、おばちゃんに嘘ついちゃってのごめんなさいやんね」
「…うん」
「汐月ちゃん、いっつもおばちゃんには嘘つかへんのよね。自分のお母さんには毎日アレコレ嘘ついて怒られてたのに、おばちゃんには素直なんよね」
何故か楽しそうな話し声に怖々と視線をあげると、彼女は汐月に微笑みかけていた。
「おばちゃんね、それが嬉しかったんよ。汐月ちゃんのお母さんが悔しがりはるから、ずっと嬉しいなぁて思ってた。そんなん、思ったらあかんのやろけどね」
「そ、そんな事ない。あかんくないやん。オレ…だってオレ、おばちゃんのこと昔から好きやもん」
「…ありがとう、汐月ちゃん」
微笑む彼女が少し淋しそうに見えてしまったせいで、汐月はそこから話せなくなってしまった。
どう話すべきなのか、正解が分からない。
「汐月ちゃん、先にこれ食べてしもておばちゃんの家に来ぉへん?」
「……え?」
冷めてしまうのが勿体ないから。そういった彼女は、汐月も早く食べなさいと促した。
丈晃の実家は、お好み焼き屋からさらに歩いて二十分程の場所にあった。
こじんまりとした一戸建ては向かって左側に小さな庭があった。暗さではっきりとは見えないが、手入れの行き届いた庭に見える。
どうぞ、と招き入れられたそこは、当たり前だが人気が無かった。幼い頃、黒澤家の玄関の扉を開けることが好きだった。小さな玄関にリビングの方からおかえりと顔を出してくれる丈晃の母の笑顔はあって当然だったのだ。時が過ぎて変化した黒澤家の玄関は、明かりもなく家主を迎えている。何故かそれが酷く心苦しく感じた。
「狭くて散らかってるけど、どうぞ」
通されたリビングにはもうこたつが出ていた。
汐月が座っていると彼女はオレンジジュースを出してくれたのだが、直後にあっと声を出した。
「汐月ちゃん、もう子供やないのにジュースはあかんよねぇ。お酒の方がええ?」
「そんな事ないよ。ジュース好きやで」
「良かった。おばちゃん、お酒は飲まへんからないんよ」
そう言うと彼女は奥の部屋から可愛らしいピンク色の箱を手に戻ってきた。
それを汐月の前に置くと、開けてええよ。と言った。
「…?」
よく分からないまま蓋を開けると、中には色んな紙が詰め込まれていた。
便箋の可愛らしい柄も見えるが、折り紙を折ったようなものもある。
「なにこれ…」
「あれ、覚えてへんのやねぇ。汐月ちゃんがおばちゃんにくれたラブレターやん」
「…えっ!」
丈晃の母は手を伸ばしてひとつの紙を開いて見せてくれた。パンダ柄の入った便箋にはミミズが這ったあとのような汚い文字で、だいすき。だとか、またあそぼうね。だとか書いてあった。
丈晃に手紙を書いた記憶は微かにあったのだが、どうやら同じ様なものを彼女にも押し付けていたのだろう。
「うぅわ、ちょっと待って、めっちゃ恥ずかしいやん!字が汚いねんけど」
「汚くないよ、上手に書いてるやろ?これはまだ小学校上がる前の汐月ちゃんが書いたんやで?幼稚園の子がこないに綺麗に文字書けるなんて、っておばちゃん感動したんやから」
我が子でもない汐月に対してそんな風に思ってくれていたなんて。感動しているのはこちらの方だ。
「ほら、こっちのは いちご狩り行った次の日にくれたやつなんよ。楽しかったね、って苺の絵も描いてくれてるやろ?」
赤の色鉛筆を使って描いたそれは、辛うじて苺に見える程度の画力だ。それでも彼女は宝石を眺めるように目を細めて眺めている。
「ここには丈晃も描いてくれてるわ。汐月ちゃん、昔はお絵描きも好きやったなぁ」
汐月にとっては隠してしまいたいような恥ずかしいものだが、嬉しそうに説明する彼女の姿に胸が苦しくなった。
「おばちゃん」
折り紙の裏に書かれた手紙を持っていた彼女の手を、汐月の両手が包んだ。
「オレな、オレ………」
自分の幸福の為に彼女を泣かせたりしたくない。
けれど、きちんと伝えなきゃならない。
「…汐月ちゃんは昔からほんまに丈晃が好きやなぁ」
手を重ねたままにっこりと笑った彼女の言葉に、涙が込み上げた。
溢れ出すと止まらなくなった涙は、子供の頃に戻ったようにポロポロと頬をつたい落ちていく。
「あらあら、泣き虫なんも変わってへんのやね」
「…ごめ、んなさ…っ、」
「汐月ちゃん。人を好きになる気持ちは皆同じやから、謝ることはないんよ。謝らなあかんのはおばちゃんの方やね。大人やのにちょっと恥ずかしいこと言ってしもたから」
伸ばされた温かな手が汐月の頭を優しく撫でてくれた。よくこうして慰めてもらった。懐かしくて、優しくて切ない。
「でもほら、汐月ちゃんは天使さんやけど、男の子やろ?やる時はびしっとしたとこ、見せて欲しいわぁ」
ティッシュで涙を拭いてくれる彼女を見つめながら、汐月は鼻をすすった。
「……お、おばちゃんの事も幸せにするから、たけちゃんと結婚してもええ…?」
言葉を選んで話す余裕がなくなった汐月は、浮かんだ言葉をそのまま口にした。自分で発したあとでなんだそれはと情けなくなったのだが、丈晃の母は立ち上がって汐月の横へ来ると抱き締めてくれた。
「汐月ちゃんはやっぱりおばちゃんの天使さんやわ。ありがとう、おばちゃんの事も家族にしてくれる?」
「…っ、ぅ、ええの?オレ、赤ちゃん産んであげられへんけど、それでもええ?」
彼女の身体にしがみつくようにして泣きながら確認すると、ほんまにごめんね、と繰り返し頭を撫でてくれた。
残業を終えた丈晃は母の好物のケーキを手に入れる為に女性客に混じって並んでいた。
実家とは駅を挟んで反対方向にあるだけに、ここに寄ってから帰るのは遠回りで面倒くさく、滅多に土産として買って行かないのだが機嫌をとるには有効だろう。二十分程待たされてやっと手に入れたメロンとイチゴのショートケーキを用意し、実家にたどり着くまでの間にどう話せばいいかと頭を悩ませた。
前回は、少しストレート過ぎた。
お陰で混乱した母には何一つ話を聞いて貰えなかったのだ。
女性と結婚して子を成して欲しいという母の気持ちは分からなくもない。
慣れた土地を離れて都会へ来たのに、信じていた伴侶に裏切られて離婚。父親と別れたあとの母は、しばらく精神的に不安定だった。あの頃はことある事にお前は母さんを裏切らないくれと泣きつかれたものだ。
女手一つで息子を育てた母にすれば、同性との結婚なんてものは裏切りでしかない。
丈晃は手にしていた小さな箱を見て、こんなものでどうにかなる訳はないか、とケーキに期待するのはやめた。
当たって砕けろ。いや、もう既に砕けているのだが、汐月に会いたい気持ちを我慢するのももう限界なだけに、この現状をどうにか打破したい。いや、してやる。気合を入れて実家の玄関に入った丈晃は、母のものではない靴がある事に驚いた。
夜に自宅に招くような友達が母にいただろうか。
不審に思いつつ玄関からリビングに顔を出すと、母が客の誰かを抱きしめている所だった。
「っ、悪い!」
見てはいけない場面だったかと思わず廊下に体を戻すと、泣いているような鼻をすする音が聞こえた。
「あら、丈晃?いいタイミングで来たねぇ。ほら、汐月ちゃん。良かったね」
母が読んだその名前に驚いて再びリビングを見ると、抱きしめられてたのは汐月だった。
「…し、汐月?な、どうしてここにいるんだ」
予想外過ぎて棒立ちでいると、母に手招きをされた。
「交代やね。汐月ちゃん、物凄い頑張ってくれたとこなんよ。丈晃も褒めてあげて」
はい、と物を渡すように汐月の身体を向けられ、ケーキの箱を床に置いて腕を回した。
汐月は素直に丈晃の腕の中におさまり、しがみついてきた。
「何がどうなってるのかわかんねぇけど、大丈夫か?」
泣く程辛い事を母親に言われたのかと不安になったが、汐月はもう泣き止んでいるようだ。
「大丈夫…。あ、あんな…丈晃…。おばちゃんに…認めてもろたから…」
「…ん?」
二人の間に何があったのか理解出来ていない丈晃が困惑していると、台所の方から母が顔を出した。
「汐月ちゃんが正式にうちのお嫁さんになる話やで。カッコイイプロポーズしてくれたから、お受けすることにしました」
「は?なに?プロポーズってなんだよ」
「あんたは知らんでもええんよ。私と汐月ちゃんの内緒のお話やから」
「…よくわかんねぇけど、汐月との結婚を認めたってことか?」
そういうこと。と、軽く返事をした母に安心した丈晃は、汐月を抱く腕に力を込めた。
「汐月…、悪かった。一方的に決めちまってお前の事考えてなかった」
伝えたかった気持ちは素直に言葉になって出てきた。
腕の中の汐月は頭を横に振ると、か細い声で会いたかったと言ってくれた。彼からそんな言葉を向けられるのは珍しくて、胸がじんと痺れしまう。
「おっ、おふくろ!俺ら帰るわ!とっ、とりあえず改めてまた二人で来るからよ、そ、その、ありがとうな!」
早く二人きりになって汐月を可愛がりたい。その欲求は抑えることが出来なくて、早口でそう言うと汐月をら荷物のように引き摺って実家を後にした。
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