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第33話
何だか最近楽しそうだねぇ。
退勤直後に声をかけられ、汐月は勢いよく振り向いた。
「今夜もデートかい?」
そうです。とでも、違うとでも適当に返事をすればいいだけなのに、躊躇したせいで変に間が空いてしまった。
「あぁ、ごめんね。プライベートな事なのに踏み込んじゃ、パワハラになるよねぇ」
店長の謝罪に、いえ、そんな。と言ったあと、デートですと一言答えた。
「そう!そうかぁ。それはとても良い事だ。楽しんでおいで」
故郷にいる父と年齢が近いだろう上司は、仕事の事を抜きにしても優しく見守ってくれている。
「はい。お疲れ様でした」
「また明日、よろしくね」
軽く頭を下げて職場である書店の前へと出ると、ガードレールに腰を掛けていた丈晃がいた。
「丈晃」
「おぉ。お疲れさん」
今夜の彼は普段とは違う雰囲気だ。最近また生え揃ってきた顎髭だけではなく、いつもより小綺麗な服装のせいかもしれない。
身体にフィットしているトップスもデニムも黒だが、シンプル故に彼の逞しい筋肉や足の長さを知ることが出来るファッションだった。
「……なんか、お洒落してる?」
「そりゃあな。お前の古巣に行くんだし」
「…圭介さんに会うん気が進まんのやったら、無理して行かんでも」
「行く」
そろそろ紹介してくれてもいいんじゃないかな。と、伊谷圭介から電話があったのは数日前。
彼から連絡が来ること自体滅多にないことなので、汐月は電話越しに耳へ注がれる優しい声音に、緊張してしまった。
並んで歩く先には、繁華街の派手なネオンが見えている。汐月にとって圭介は色んな意味で世話になっている恩人だ。
夜の時間しか顔を合わせないような知人なのに、会うと必ず細やかな気遣いを見せてくれる。だからこそ、人生のパートナーである丈晃を紹介したい気持ちはあるのだが、圭介の話題になるとどうも流れる空気が穏やかではなくなるのだ。
理由は汐月も理解しているが、過去の事を言われても時間は戻せず事実は曲げられない。
圭介と肌を重ねた回数を聞かれたりすれば、一発殴って終わりにできるのだが、丈晃は文句を言いたそうに目を細めて不機嫌そうに黙るだけだ。
はっきりとしないモヤモヤとした空気が気持ち悪い。だが、それも圭介と会ってきちんと紹介出来れば晴れるだろう。
(それでも機嫌悪そうにしとったら、なんか理由つけて殴ったろ)
理屈のない打破法を心に決めた汐月は、重い木の扉を開けた。
繁華街の眩しい明かりを避けるように佇むこの店に、何度通っただろう。
力を入れて開いたその扉は、足を踏み込んだ瞬間に外界との繋がりを切ってくれそうな気がしていた。
この店の中では、気持ちが楽だった。
「元宮様、いらっしゃいませ」
「マスター、久しぶり!」
カウンターの中からかけられる声と微笑みは今夜も変わらない。
マスターはフロアへと出てくると、汐月と丈晃を奥にある広いテーブル席へと案内してくれた。
焦げ茶色のテーブルの上には華やかな花が飾られていて、色味の少ない店内と違い過ぎて驚いた。
「…お花…」
白を基準にした花々は、差し色に黄色や赤が入っていてとても綺麗だ。
「これ、もしかして」
「差し出がましいですが、私からです。黒澤様、元宮様、この度はおめでとうございます」
ゆっくりと頭を下げたマスターからの言葉に、汐月の頬が徐々に熱くなってきた。
「ご丁寧にありがとうございます」
対する丈晃も、座っていたソファから立ち上がりきちんと頭を下げていた。
「こら、汐月」
促されて慌てて同じ様に礼をしたが、慣れないシチュエーションに急激に落ち着かなくなってきた。
「お飲み物をお持ちしますので、お待ちください」
カウンターへと戻るマスターの背中を見つめつつ、跳ね上がる心臓を抑えるように胸に手を当てた。
「お前の実家に行くより仰々しいな」
「オレもそう思う…。な、なんかめっちゃドキドキしてまうわ」
運ばれてきたビールの入ったグラスに口をつけようとした所で、歩み寄る圭介に気がついた。
「圭介さん!」
「呼び出しておいて待たせてしまってごめんね。…このような場所に足を運ばせてしまって申し訳ない。黒澤くん」
圭介が手を差し出すと、丈晃も応えて握手を交わした。
「黒澤くんの話は、いつも湊さんから聞かされていたから知っているよ」
「俺の方もお見かけしたことはあるんで。お話したことはありませんでしたけど」
「そう。…だからこそ、余計なお世話だけど確認しておきたかったんだ」
結婚の報告のはずだったのに、どことなく不穏な空気が流れている気がする。
「…確認ですか」
「うん。…過去は過去なんて綺麗事、俺は信じてない方だから」
「……何が言いたいんですか。遠回しに言われてもよく分かりません」
確実に二人の間に火花が散ったような気がしたが、圭介は微笑んで煙草に火をつけた。
「そんなに睨まなくても大丈夫だよ。…幸せになるべき大切な子が、つまらない火遊びの洗い残しに傷付くような事がないようにしたいだけだよ」
交わされる言葉の意味が分からず見守っていた汐月の肩が、丈晃に抱き寄せられた。
「こいつを幸せにするのは俺です。…あんたじゃない」
決意の籠った低い声が間近で聞こえ、顔が赤くなるのが自分でわかる。
「ちょ、急になんやねん」
「汐月くん」
穏やかな圭介の声に顔を向けると、にっこりと笑っていた。
「おめでとう。もう俺の添い寝は終わりだね」
肩を掴む丈晃の手に力が込められたことには気づいていたが、あえてそれは無視しておいた。
「…圭介さん…。あの、ほんまに…。オレの事いつも気にかけてくれてありがとう。オレ…、オレな。た、丈晃が初恋やねん。圭介さんは、初恋は実らんて前にゆーてたけど、オレはそんな事ないと思う」
立ち上がった汐月は、向かいに座っていた圭介の元へ移動して煙草を持っていない手を強く掴んだ。
「オレ、圭介さんにも幸せになって欲しいって思ってるから。…今度はオレの事も頼って欲しい」
彼の事は何も知らない。自分の事は話さないし、唯一知っているのは、この店の経営者は彼だということくらいだ。それも特に汐月だけが知ることではない。繁華街には彼が経営する店がまだ複数あるらしい事も、この店の常連ならおそらく当たり前に知っているだろう。
ただ、単純に世話になった彼にも幸せになって欲しいと思っただけなのだが、圭介は汐月が握り締めた手を見つめると、僅かに眉を寄せた。不快に思った訳では無いだろうが、彼の綺麗な瞳が温度を無くすように冷たく澄んでいる。
「…汐月くんは優しいね。ありがとう」
汐月の手の中から逃げた圭介の手は、頬や頭に触れてこなかった。
「水を差すようだけど、結婚して自動的に幸せになる訳では無いからね。もし旦那様と喧嘩したら、いつでもここに来たらいいから」
「………」
ムスッとした目で丈晃が見ていたが、黙っている。
「知らない人について行ったり、適当に家出するくらいならここに来なさい。いいね?」
汐月に言い聞かせるその瞳は、もう優しい温度を取り戻していていつも通りの彼だった。
汐月が素直に頷くと、いい子だね。と、頭を撫でてくれた。
「そろそろ湊さんも来るだろうから、皆で飲んでいってね。今夜は俺からのプレゼントだから、しっかり楽しんで」
「え!オカマも来るん?」
思わず口から出たあとでしまったと思ったが、圭介は笑ってくれた。
じゃあね。と、圭介はいつものようにすぐに店を出て行ってしまった。
「なんや、圭介さんもっとおってくれるんかと思ったのに」
「……お前、いつもあんな風に触らせてんのかよ」
「なんかでも、ちょっと寂しそうやったな…。やっぱりオレが誰かのもんになるん嫌なんかな〜」
丈晃の言葉を無視してビールのグラスを手にしたが、口をつける前に手から取り上げられてしまった。
「汐月。お前は誰にもやらねぇぞ」
控えな照明の中でもはっきりと見える彼の黒い瞳は、汐月だけを映している。
見つめあったことで丈晃の顔が寄せられたが、それを手のひらで止めてやった。
「なぁ、大学ん時か?なにやらかしたん?」
圭介の言葉は聞き流せるものではなかった。直感的に聞いておいた方がいいと思った。汐月がビールを飲んで返事を待っている間、彼は難しい表情をしている。
言い難いなら言わなくても。そんな風に誤魔化すつもりはなかった。汐月の直感が、逃すなと訴えている。
「…大学ん時にな。ほぼ一緒に住んでた相手が妊娠したんだ」
男は妊娠しない。そして、特別な関係性でない女性と一緒に暮らしはしないだろう。
「付き合ってた相手がって事やんな。…それ、どないしたん?」
「責任とって結婚しようと思ったんだけどな。すぐに向こうが白状してきた。俺との子供じゃないって」
「……ほんなら、なんも問題ないんやないん?」
「あぁ。その後のことは知らねぇしな」
何か引っかかる。僅かに感じた事だが、違和感がある。けれどその正体が何かは言葉にできない。そもそも、丈晃自体が終わったことだと話しているし、浮気相手との子供ならば確かに終わった話だろう。なのに、なんだろう。
「二人してしんみり飲んでるんじゃないわよ。めでたい席なんじゃないの?」
長身の椎名がテーブルの前に立っていたが、声をかけられるまで気が付かなかった。
「こんばんは、湊さん」
「はい、これ。結婚祝い」
椎名は二人の向かいではなく、わざわざ丈晃の隣に腰を下ろした。
「えっ、マジっすか」
「可愛いたけの結婚だからね。そりゃお祝いくらいするわよ。おチビちゃんが浮気でもしたら、私が相手してあげるからね」
椎名の手が丈晃の足に乗せられているのが見えて、丈晃を挟んだ反対側から手を伸ばして払い除けてやった。
「何よ。いいでしょ、ちょっと触るくらい」
「アカンに決まってるやろ。節操のないオカマやなぁ」
「あんた、本当に失礼ね」
恋人が隣にいるのにちょっかいを出す方が失礼に決まっている。そう怒鳴ってやろうかと息を吸い込んだが、大きな音が聞こえて引っ込めた。
椎名の携帯から出ていた着信音だったらしいが、携帯画面を見た椎名は露骨に嫌そうな顔をした。
「…はよ出んと切れてまうで」
「わかってるわよ。…もしもし。掛けてくるなって言ったでしょ」
低音の声は本気で不快そうだ。
「だからなんで、あんたはいっつも私の話をちゃんと聞かないのよ。………あ〜、もういい。分かったから。いい?じっとしててよ。大人しく待ってなさい」
苛立っているような言い方だが、それ程嫌がっているようには聞こえなかった。
「湊さん、彼氏からですか?」
「ちっ、がうわよ!誰があんな豆つぶ!とりあえず帰るけど、たけはこんどサシ飲みだからね。おチビちゃん抜きで飲みましょ」
丈晃にだけ笑顔で手を振った椎名に向かって舌を出してやったが、彼がくれた結婚祝いの包みはとても大きかった。
「湊さんがあんなに騒いでるの珍しいんだよな。もしかして本命じゃねぇか」
「はよ落ち着いたらええのに。いちいちウザイねん、あの人」
「……汐月、嫉妬か?」
贈り物を包みの上から撫でて中身を探っていた汐月は、嬉しそうに目尻を下げる丈晃を睨んだ。
「そうですけど、なんか文句あります?自分の男やのにベタベタ触られたらムカつくん当たり前やろ。ついでにゆーたらな、触らせてる方にもムカつくんやけど」
勢いのまま本音をぶつけたが、喜ばせてしまっただけだったようだ。丈晃は汐月の膝からプレゼントの包みを取り上げると、抱き締めてキスをしてきた。
「…帰るか」
「……うん…」
アルコールの香りの強いキスは、身体を素直にさせてしまう。
汐月は丈晃と手を繋ぐと、座り心地のいいソファから離れた。
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