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第53話
涙が出そうなのを乗り越え、短い呼吸を繰り返す。
あの人の臭いは、時折部長から香ってきていた匂いだとか、
傍にいた子供が、思いのほか部長に似ていたこととか、
塞いでおきたかった情報に頭を殴られたようだった。
その衝撃のままに倒れ伏したかったけれど、いつ人が入ってくるかわからないこの場所ではそれもままならず、努めて短い呼吸を深呼吸に変えようとした。
こらえきれなかった涙が、頬を伝う感触がする。
こつり
静かに開く資料室のドアの音より、余程その足音の方が大きかった。
踏み鳴らしたのでもない、ただ歩みを進めたために鳴った足音で、その持ち主が分かってしまう。
こつり
こつり
その足音には迷いがなくて、オレの前に来て止まるまで乱れることはなかった。
「顔を上げろ」
その命令に応える義務はない。
なのに体が思考を裏切って、従順な犬のように見上げざるを得ない。
逆光の部長。
口元の、微かな歪みだけが見えた。
圧し掛かる影に逃げることも忘れて……
「いい顔だ」
オレの唇を塞いだ部長がそう微かに漏らした。
差し込まれる舌を拒むことなく受け入れ、くすぐる舌に応えて伸び上がる。
すぐに離れた唇を寂しげに追うと、笑みのない双眸がこちらを見下ろしていた。
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