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第90話
「 ああ、そうだな」
「────っ!」
逃げ出そうとしたオレの腕を、どうしてこの人は掴むのか。
「 っ! !!」
ぐっと力を入れて身を引くも、引っ張られるのは逆にオレの方だ。
電話の片手間にオレを捕まえて、逆らうこともさせない。
抗議の声を上げようとしたのを察してか、携帯電話を持つ手の人差し指が立てられ、静かにしていろと指示が飛ぶ。
それに従う理由もないのに、開きかけた口を閉じて項垂れてしまうことが、自分自身で不思議だった。
「 ああ、おやすみ」
柔らかに耳を打つその声を聴くのは、自分ではなく部長の子供で、奥さんで……
ぱた と、大粒の雫が落ちてシャツに染みをつける。
それを皮切りに崩壊した涙腺から雫があとからあとから流れてくる。
「放してくださいっ!!」
力強い指を引きはがすこともできなかったけれど、それでも抗って部長から距離を取る。
「 ぃやっ!お願いですっ 放して 」
「そんなに泣くほど私が嫌か」
嫌?
部長自身のことだけならば、こうやって力づくだとしても、すぐ傍にいることができて……嬉しい。
厳しい眉間の皺も、冷たい双眸も、頑固そうな唇も、力強い体だって。
あんなに酷い抱き方だったのに、熱く求めてくれたことはこれ以上ないくらい心地いい。
けれど、だから、苦しくて。
「ちが っ」
小さく首を振ると、更に雫が伝う。
「 泣くほど 好きです ────愛しているんです 」
「 」
「 だから、もう無理 」
「初めて口にしたと思ったら、拒絶 か」
そうか オレ自身も、部長に対してこの言葉を口にしていなかったのか……
今更なことに、疲れた笑いが零れる。
「もう、ご家族との電話を聞かされたりとか 聞かされたら、自分のちっぽけさで、消えてしまいたくなるんです 、部長を好きだから、ぞんざいにされると、この辺りが痛くて……もう、苦しくて 」
引っ張られても抵抗の気力が湧かず、なすがままに膝の上へと崩れ落ちた。
厚い胸板に押し付けられ、一気に捲し立てた激情が凪ぐ気がする。
「 そうか」
「 部長は オレの物にならないでしょう?」
一刹那の間を置いて、唇が歪む。
「そうだな」
わかりきった答えを改めて聞く虚しさは、心を擂り潰すようだった。
「だがお前は私の物だろう?」
指先がいつの間にか流れ出した涙を拭い、戯れるようにそれを光に翳す。
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