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小林君、資料室整理の裏話

 失礼しますと声をかけて扉を開けると、コーヒーを啜ろうとしていた社長が  いや、義父が顔を上げてこちらを見た。 「ああ、  ちょっと早いんじゃないか?勤勉だね」 「出直します」 「いや、いい」  ちょいちょいと手招かれるのに従い、社長の机に近づくと義父はやけににやにやしている。 「人を、動かしたいんだって?」 「……はい」 「総務の子?」 「ええ」  しれっと返してみるが、にやにやは止まらない。 「名前がいいよね、『司』、この字好きなんだぁ、息子にもつけてるだろう?」  そう言われて思い出すが、妻の兄弟にその字のついた人間はいなかった。私の冷たい視線で気づいたのか、あっと顔をしかめた義父はわざとらしく肩を竦める。  社長秘書が愛人と言うのは公認の事実で、子供を産ませたと噂もあった。  どうやら今、噂ではないと知ってしまったらしい。 「司ちゃんかぁ、可愛いの?」 「くん、ですよ」  そう言ってやると明らかにがっかりした。 「面白そうな人材なので、将来的に傍に置こうかと」 「女の子にしときなよ、細かく気が付くし、いろいろイイよ」  好色ジジイがと心中で吐き捨てても顔に出ないように努める。 「司『くん』ねぇ、可愛いの?」  本気かエロジジイと言う言葉も飲み込んだ。 「どうでしょう?不細工ではないと思いますが」 「男には興味ないから別にいいけど」  上に立つ人間が、こんないい加減でいいのだろうか…… 「使えそうなの?」  おそらく  の言葉を出すのに逡巡した。  腕の擦り傷、赤い花が咲いたような  小さな赤い蔓バラのような  見た瞬間脳裏に焼き付いた。 「賢しくなさげなので」  こちらを見上げて泣く姿の……  自分に加虐趣味があるなんて夢にも思わなかったが、こちらを見上げた怯えた顔と目に滲んだ涙は、何かを揺さぶるには十分だった。  あの泣き顔を、他の何者かが見たと思うだけで腹が立つ。 「へぇ、こちらに引っこ抜こうか な」  ふざけた言葉の中に、鋭い眼光が光るのは親から継いだとは言え、経営者としての経験からなのか…… 「  まぁ   小林くん以外なら好きにすればいいよ」 「小林?」  あの時、三船の前にいた人間がそんな名前ではなかったか? 「なぜ?」  社長が、とりたてて目立つわけでもない平社員の名前をいちいち知っていると言うのも妙な話だ。  余程奇妙な顔をしていたのか、義父は笑い出した。 「  あの子は。そうだね、遊ばせてて欲しいんだよね」  食えない笑顔は、この情報はお前にはまだ早いと門前払いをしてくる顔だった。 「   では、資料室の整理でも頼んだらどうですか?」  埃まみれの乱雑な場所と、三船を泣かしていた場面を思い返して不愉快さに目を細めた。 「あ、そう?散らかってるの?あそこの整理ってどこ担当だったっけ」  そう言いながら、返事も待たずに机の上の内線ボタンを押す。 『はい、総務部です』 「呼ばなくていいんだけど、小林くんいる?」  「は?」と声が聞こえた後、向こうでバタバタと音がする。 『お、おりますが  何か  』 「ちょっと彼に資料室の整理頼んでくれない?」 『は、はぁ  資料室ですか?』 「頼んだよ」  ぷつん  と内線を切って、機嫌よさげに背もたれに身を預け、ふんふんと指でリズムを取る。  社長に目を付けられるような何かを、やらかしたのだろうくらいしか思わないが、胸が空く思いがした。 「  んでさぁ、君、自分が思ってるよりも考えが顔に出てるからね」 「      精進します」 「もう下がっていいよ」 「失礼します」  一礼して踵を返してから、クソジジイが!と胸中で吐き捨てる。 「ああ、そうそう、ジジイってやめてよね、もっと可愛らしいので頼むよ」  扉の前で振り返り、努めて冷静なふりをして一礼した。 「じゃあ、またね」  タヌキ親父が と心の中で毒づくが、義父は満足そうに頷いて返す。  父と呼ぶようなって久しいけれど、いまだに底の見えない人だと、社長室の扉を睨みつけながら思った。 END.

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