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レモン・後編 (完)

それから、オレにとっては一瞬にもものすごい長時間にも感じる待ち時間を過ごしていると、清が風呂から出て部屋へと戻って来た。 「ただいまー…何正座してんの?」 帰ってきた途端にふっと笑った清は、風呂上がりでしっとり濡れた髪の毛のせいか、もともとイケメンなくせに色気もプラスされて本当にイケメンだった。 「え?や、うん。なんとなく」 「なんだそれ」 清はオレの隣へと腰を下ろすと、じぃっと長めにオレを見つめた後にっこり笑って、そのままぎゅうっとオレを抱きしめた。 早速きたー!とどきどきしながらも、待ち時間中に考えた想定の範囲内だったので落ち着いてぎゅうっと清を抱き返す。 すると清がまた首のあたりをスン…としてからゆっくりとオレから離れ20cmくらいの距離で止まる。 間近にあるその顔は、さっきまでの笑顔を消して真顔だった。 (やばい、いよいよキスか…!) さすがにキス以上のこととなると、想定はしてても気持をコントロールできず、緊張で汗をかく手でぎゅうっと握り拳を作り、膝の上に置いて、それからぎゅっと目を瞑った。 少し、清が近づいた気がした。 「………っ」 「………なつめ…」 (………え?) いくら待っても唇に感触は訪れず、しばらくして体を離されるとポンと頭を撫でられ 「…髪の毛乾かすか。ドライヤー持ってくる」 と言って、清はまた部屋を出て行ってしまった。 (…今、"なつめ"って言った…?) 声は小さかったが、確かにそう言った。 (誰かの、名前…だよな…) 名字の様にも名前の様にも、男の様にも女の様にも聞こえるその名前。 その人が清の忘れられない人なんだろうか? …きっとそうだ。そうとしか考えられらい。 そんな人がいるかもしれないと思ってはいたが、まさか抱き合って、キスを待ちの時にそんな名前を呟かれるなんて… さっきまでの楽しみがが嘘のようにどん底に突き落とされた気分だったが、廊下から清の足音が聞こえてきたので、必死に涙をこらえた。 それからなるべく自分の落ち込みを悟られぬように平静を装い、お互い髪を自分で乾かしてから「もう寝るか」と言って布団へ入った。 電気が消され静まり返った室内で、すっかり寝入った様子の自分に向けられた清の背中を見つめると、何とも言い表せない悲しみが溢れ出す。 (やっぱり清には、忘れられない人がいたんだ。だからオレじゃダメだったんだ…) そう考えてしまった瞬間、ぶあっと目頭に涙が浮かぶ。 止めようと思っても思うように止まってくれず、拭っても拭っても溢れてきてしまうので、清に背を向けて気づかれないように目を覆って泣いた。 「………」 「………」 「………っ」 「………栄?」 清はまだ寝ていなかったのか、オレの異変に気づきオレの方へと振り向いた。 「え、何?泣いてんの?」 「……なんでもないっ大丈夫っ」 「なんでもないわけないじゃん」 清は体を起こし、部屋の電気をつけた。 急に明るくなったせいで目を手で覆っていてもやたら眩しくて、ぎゅうっとめを瞑る。 「……やっぱ泣いてんじゃん。何、どした?」 優しくかけられる言葉になんでか余計に涙が溢れて、嗚咽まで出てきてしまう。 そんな自分が情けなくて、清から顔を背けるようにうつぶせになる。 「…ひっ…うっ…清…っ」 「何、ホントどうした?」 清が温かい手でオレの背をさするから、ぶあっと涙が止まらなくなった。 「…"なつめ"って誰…?どうしてもその人忘れられない…?」 感情を抑えきれずにぐずっぐずっと鼻をすすりながら言葉にすると 「……え?なつめ?誰それ?」 ととぼけたような言葉が返ってきたので、思わずかっとなる。 「とぼけんなよっ…清の忘れられない人だろ!さっき清が言ったんじゃんか…っ」 「え、いつ…?」 「……オレがキス待ってる時だよ」 そう言うと、清は少し首を傾げた後にはっとした。 「…清はモテるくせに彼女つくんないのは、忘れられない人がいるからだって…そういうのは噂になってたから知ってた。…けど、やっぱオレを目の前にしてその人の名前を言われるとか、やっぱ辛い…」 言葉にするたびにどんどんと涙が溢れてまた手で顔を覆うと、はぁっと小さなため息が聞こえた。 清に呆れられたかと思うと、また余計に涙が出た。 「…あーごめん。栄、なんかすごい誤解してる」 「…何…?そもそもオレと付き合ってるつもりじゃなかった?」 「そうじゃない。オレも栄と付き合ってると思ってるよ。…"なつめ"は…栄の聞き間違いだし。…皆の告白断ったのは、確かに忘れられない人がいたからだけどさ。じゃあだったら何で自分とは付き合ってるんだろうとか思わないの?」 そう問いかけられるが、言われてる意味がよくわからない。 「……忘れられない人の、代わり、とか?」 「そうじゃない。忘れられない人が、栄だからだよ」 そう言われた途端、驚きのあまり馬鹿みたいに溢れてた涙が急に引っ込んだ。 「…何言ってんだよ。オレ、清とは高校入るまで会ったことなかったろ?」 高1の時点で「忘れられない人がいる」と言っていたのだから、それがオレの筈ない。 そう思っていたのに、清はゆるゆると首を横に振った。 「オレと栄、会ってるよ。受験の時にさ。…栄高校入った時"初めまして"とか言ってきたから、自分だけ覚えてんのがなんか恥ずくて言い出せなかったけど…」 そんな風に言われてもオレには全く身に覚えがなく、ぽかんと口を開けて固まってしまった。 「…え?いつ?いつの話?」 「………だから受験の時」 受験の時と言われても、こんなイケメンに会ったろうか? 会ったとしたら覚えてると思うのに、緊張していっぱいいっぱいで同中の奴らとギャーギャー言ってた記憶しかない。 オレが思い出せないのを察したのか、清は少し寂し気に笑った。 「…受験の時さ、オレ栄と一緒の教室だったんだ。オレ学区外受験だったから知り合いいなくてぼっちだったのに…うっかり消しゴム忘れて。そんで困ってたら栄が声かけてくれて…自分の消しゴム半分に割って、オレにくれたんだ」 (あ…) 「そういえば…そんなこと、あったような…」 でもその相手が清だったかなんて、言われた今でもはっきり思い出せないほどの曖昧な記憶だった。 「…忘れててごめん」 謝ると清はゆるゆると首を振った。 「本当に一瞬しか話してないし、栄が忘れるのも当たり前だと思う。…だけどオレにとったら…栄はなんかすげえ救世主みたいでさ。しかも消しゴムくれた時に笑った顔がさ、めっちゃ可愛くて…一瞬なのに、ずっと忘れらんなかった」 信じられない告白にドキドキしながらも、ゆっくり体を起こして清と向き合った。 「…じゃあ清は…オレのこと、好きなんだ?」 「好きだよ、めっちゃ好き」 その言葉もその瞳も、まっすぐオレに飛んでくる。 「……じゃあ、じゃあさ。なんでキスとかしないん?さっきとか、いいムードだったと思うのにさぁ…」 「…それは…」 清は少し視線を下へと反らしたが、オレがじーっと見つめているため観念したのか、ゆっくりまた顔をオレへと向けた。 「…栄を大事にしたいって思ってたのもあるんだけど……ごめん、匂いが、さ…」 まるでデジャブのようなその言葉にオレはとてつもない衝撃を受けた。 「ごめん…!オレ、臭かったよな。最近初めて知って…そんで香水つけるようにしたんだけど…」 妹の言った通り、オレが臭かったからなのか。 余りの情けなさにすっかり引いていた筈の涙がまたぶあっと目に溜まるのが分かった。 清に自分の臭さが伝わらないように後ずさりしながら涙を手で拭うと、清が慌てて手を取った。 「え、違うから!臭くないから!!栄のつけてる香水が、妹のつけてるのと同じで…!!」 「え…?」 ぽかんと固まるオレに、清は少し情けない顔をした。 「いや、その、せっけんみたいな匂いが、妹と同じで。栄がいい匂いっていうからなんか言い出せなかったけど… 栄をさ、目に入れてる時は割といいんだけどさ。キスしようと思って目つぶると、なんかどうしても妹思い出して…だからなんかできなくて。 さっきせっかく風呂に入って匂い無くなったと思ってたのに、オレが出てきたらまたつけちゃってるしさぁ… …さっき栄が"なつめ"って聞こえたのは、妹思い出して"奈津め…"って言ったんだよ。オレの妹、奈津っていうから…」 「え…あ、この香水?この香水がいけないの?オレが臭いんじゃないの??」 まさかの展開にパニクってクンクン自分を嗅いでいると、 「栄を臭いと思ったことないよ。その香水も別に嫌いじゃないけど…妹と同じのは…なんかヤダ…」 ともう一度言われた。 「…オレ、妹に臭いって言われて…だからてっきり…」 オレ自身が臭いかと思ってたのに、まさか妹のくれた香水が仇となっていたとは。 衝撃に打ちひしがれながらも、そうと分かれば… 「…オレ、もっかい体洗ってくる!!」 そう言って立ち上がろうとするオレを、清がグィっと引き留めた。 「いいよ、わざわざ入んなくても。…その代り、これつけてくんない?」 そう言って清が近くの棚から取り出したのは、使いかけの香水だった。 (清、香水なんてつかってたっけか?) そう思いながらも、自分の臭さに気づけないくらいだから清の香水にも気づかなかったのかなぁと思い直り、渡された香水でせっけんの匂いが消えるようにシュシュシュっと多めにつけた。 (…あ、この匂い) 「清、これ…」 あることを思い出し清の方へと顔を向けると、いつの間にか近づいた清の顔が目の前にあって… 想定外の展開に、手に持った香水を落とさないようにぎゅっと強く握りしめた。 …初めてのキスは、レモンの匂いがした。 終   2015.9.20 「…清。オレ、ちょっとだけ思い出したんだけど。これってさ、あん時オレがあげたヤツの匂いじゃない?」 手に持った香水のボトルを見つめる。 高いブランド物ではなく、単純にレモンの匂いがするだけの、香水と言っていいかもわからないようなチープな匂いなのだが、それでも懐かしいあの匂いに似ていた。 「…そうだよ。オレにとっての栄の匂い。男なのに受験に匂い付きの消しゴムもってくるとか可愛いなって思ったんだよ」 そう言って清が優しく笑って。 それからまた2人の距離は0になった。 テーマ「忘れられない匂い」/special thanks★橘様

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